「昨日、あのまま雨が降らなかったら……たぶん100%負けていた」

 素直すぎるとも思える錦織圭のこの言葉は、前日の彼が置かれた窮地をあまりに明瞭に浮かび上がらせ、聞く者をドキリとさせる。

「第4セットも先にリードされ、精神的に戦う準備ができていなかった」

 降雨直前の心境を、彼はそう振り返った。


窮地を脱出して4回戦進出を果たし、ガッツポースをする錦織圭 錦織が「アジアから若い選手が出てきたのはすごく嬉しい」と歓迎し、チョン・ヒョン(韓国)が「尊敬している選手と対戦できるのは光栄」と心待ちにした一戦は、錦織が才能豊かな若者に経験と実力差を見せつけるように始まった。

 やや硬さの見える21歳の心中を見透かしたかのように、最初のゲームからリターンで圧力をかけていく。高いポジションを保ち、緩急自在の”柔”のテニスで”豪”の相手を揺さぶり崩した錦織が、ブレークでの快調なスタートを切った。

 その後も展開力で勝る錦織の優勢は続いたが、後に振り返ってみたとき、苦闘への些細な予兆は第5ゲームの最初のポイントで、顕在化し始めていたかもしれない。

 相手の甘いセカンドサーブを打ち返しそこねたとき、錦織は顔をしかめて、自身を責めるようにラケット面で頭を叩く。その後は打ち合いでも徐々にストロークが短くなりだし、3ゲーム後に許したブレーク……。最終的に第1セットは土壇場の勝負強さを発揮して取るものの、25を数えたエラーの数はその後の展開に不安を残した。

 第2セットをも奪い、すべての面において優位に立つはずの錦織だが、第3セットに入っても彼の苛立ちや集中力の断線は要所要所で顔を出す。第3ゲームでもリターンを大きくふかした場面で、「あー、もう!」と叫び声を上げた。

 対するチョン・ヒョンは、「楽しみにしていた一戦で、このまま終わりたくない」という無垢な想いがボールを追う活力となる。その相手のひたむきさの前に、ミスが増えていく錦織。第3セットはタイブレークの末に、チョン・ヒョンが奪い返した。

「イージーミスがなければ、6-3くらいで取れていたセット」

 後に錦織は、第3セットをそう省みる。己に募らせた鬱憤(うっぷん)の最大の原因は「リターンミス」。

「リターンがもう少し入っていれば、もう少しスムーズに進んだと思う」

 自信を持つリターンから思うように試合を作れなくなっていたことが、他のプレーにも影響を及ぼしただろうか。灰色の空から落ち出した雨が赤土に黒いシミを作るなか、第4セットでの錦織はミスが止まらず、3ゲームを連続で落とす。ラケットを叩きつけ、メディカルタイムアウトを要求したまさにそのとき、雨脚は試合継続不可能なまでに威力を増した。中断の約2時間後には、全試合の翌日への延期が発表される。冒頭でも触れたとおり、錦織も認める、これ以上ないタイミングでの恵みの雨であった。

「最終的に5セット戦えたのだから、僕にとっても問題なかった。あのまま昨日試合を続けていたら、もしかしたら自分に有利だったのかもしれないが……それはわからない」

 チョン・ヒョンは雨を嘆きはしなかったが、約半日の時間は錦織を我に返らせるには十分だった。すでにふたつのブレークを許していた第4セットは半ば捨て、彼はファイナルセットに勝負をかける。

「今日はリターンで集中し、まずは1本返して……というのを決めていた」

 その決意を示すようにサーブを深く打ち返すと、先んじてボールを動かし、外堀を埋めて相手の選択肢を狭めるように、じりじりとラリー戦を支配する。第3ゲームを会心のリターンウイナーで、まずはブレーク。その後ブレークバックを許すも、直後のゲームでふたたび鋭いリターンを起点に主導権を掌握した。

 15-15の場面では、激しい打ち合いのなかから山なりの深いボールを打ち込み、相手を押し下げると同時にポジションを上げて、フォアのウイナーを叩き込む。このとき、コートサイドで試合を見ていた加藤未唯(今大会に単複で出場)が思わず、「うまっ!」と感嘆の声を漏らした。

 総計3時間51分に及んだ熱戦は、最後はチョン・ヒョンのダブルフォルトで終止符が打たれる。観客のため息が交じる結末は、錦織がリターンでかけ続けた圧力を象徴する幕引きでもあった。

 厳しい試合だったのは、間違いない。それでも「運も使いながら気持ちを切り替えられたことが、次につながった」と、錦織はポジティブに捉える。

 元全仏オープン王者であり、ラファエル・ナダルの現コーチであるカルロス・モヤは、「真にいい選手とは、悪いプレーのときでも勝てる人だ」と言った。そのような試合が自信となり、大会を勝ち上がるうえでのターニングポイントにもなるのだと……。

「こういう試合を勝ち上がったことは、自信にもなる」

 奇しくも錦織は、試合後にそう言った。

 リターンを重視し、文字どおり窮地からの「帰還」を果たしたこの試合が、今大会のひとつのターニングポイントになると信じたい。

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