アジアカップ2015で150キャップを達成し、日本代表の仲間から特製キットを贈られた。少し恥ずかしそうに、はにかむ。(C)SOCCER DIGEST

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 ワールドユースで銀メダルを掴んだ。その後に続くシドニーオリンピック、そして日韓共催ワールドカップに向けて視界は良好かと思いきや、事はそう上手く進まなかった。

【遠藤保仁PHOTO】骨太のキャリアを厳選フォトで振り返る
 
 オリンピック予選ではふたたびベンチスタートを余儀なくされ、本大会は登録メンバーに入れず、かろうじてバックアップメンバーに名を連ねる。そこで、フィリップ・トルシエ監督と日本サッカー協会は酷な決断を下した。怪我人が出て代替登録されないかぎり、ピッチには立てない遠藤保仁、山口智、吉原宏太、曽ケ端準の4人を、チームに帯同させたのだ。
 
 これも大事な役目と頭では理解していても、20歳の若者にとっては、自制が難しい毎日だった。
 
「悔しかった。なんで選ばれなかったのか、もうちょっと自分としてできたんじゃないかとずっと思ってて、どこかで出し切った感がなかったから。落ちてもしょうがないってところまで、自分を持っていけてなかった。納得できてないなかでのバックアップだったんでね。もっと強くなって帰ってこいと、そう言われてるんだと思いなおした」
 
 その後もA代表には呼ばれそうで呼ばれず、2002年のワールドカップは完全に蚊帳の外。大会後、ジーコ政権に移行してからのアルゼンチン戦(11月)でようやく初キャップを刻んだ。
 
 ジーコジャパンでは大いに存在を示した。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一が織りなす黄金のカルテットが中盤のレギュラー枠を独占するなか、小笠原満男や福西崇史らと猛烈な突き上げを繰り返し、重要なパートを務めあげた。2003年のコンフェデレーションズ・カップや2004年のアジアカップで印象的なパフォーマンスを披露し、ドイツ・ワールドカップのアジア最終予選でも要所で起用され、指揮官の期待に応えた。
 
 しかし、ドイツでは大会登録の23人には選ばれるも、フィールドプレーヤーで唯一出場機会を与えられなかった。周りは憐みの眼差しを向けたが、当の本人は、さしてショックを受けていなかったと振り返る。
 
「あれだけのメンバーだから、出れない選手がいるのは当たり前だと思ったし、最後のブラジル戦は展開次第で出れるチャンスがあったしね。もちろんワールドカップのピッチに立てなかったのは悔しいんだけど、そこだけ切り取られても困るかな。
 
 2002年からの4年間って、個人的にはものすごく濃い4年間だった。試合数が多くて、海外遠征も変わった国にいっぱい行かせてもらったからね。あの4年で40試合くらい出たんじゃないかな。ずっとすごいメンバーと一緒にやれたし、対戦相手も強豪ばかりで、本当に感化されっぱなしだった。
 
 どうしてもワールドカップでの出来や出場の有無とかが印象としては残りやすい。実際に、俺を出せばもっとやれるのにとは思ってたけど、いつも充実してたし、ジーコには感謝の気持ちしかない」
 では、オーバーエイジ枠での出場が内定していた2008年の北京オリンピックはどうだろう。こちらは自身の体調不良により、辞退せざるを得なくなった。
 
「あれは残念だったとしか言いようがない。じつは、予習してたんだよね。自分としては出場を承諾してたけど、正直言ってあんまり選手のことを知らなかったから、知り合いにお願いしてDVDをもらって研究してた。五輪は唯一ってくらい出てない大会だから、いまとなれば、惜しいことをしたなって思うよね」
 
 そして、2010年の南アフリカ・ワールドカップだ。ラウンド・オブ16のパラグアイ戦まで全4試合に先発し、中盤の要としてフル稼働した。
 
「実際にワールドカップのピッチに立ってみて、タッチラインのあっちとこっちじゃこんなに違うのかって実感した。これはやっぱりすごいなと。ようやくワールドカップを経験できたと思った。小さい頃から夢見ていた華やかな舞台はこれだったんだって。(初戦の)カメルーン戦で第1歩を踏み入れた時は、なんとも言えない感動があったよね」
 
 31歳でようやくワールドカップの檜舞台に立った。そんな遠藤を、晩成型だと見る向きが少なくない。遅咲きと言われることもある。これを本人にぶつけると、一蹴された。
 
「どっちでもないでしょ。だって俺、22歳で代表に入ってるからね。なんか苦労人みたいに見られがちだけど、ぜんぜん恵まれたキャリアだと思う。ワールドカップでのイメージが強すぎるだけでね。まあ、幸せの中での苦労人ではあるけど」
 
 言い得て、妙だ。
 
 アルベルト・ザッケローニ政権でも中軸を担い、ブラジル・ワールドカップに出場した。後任のハビエル・アギーレ監督もラスト采配となったアジアカップ2015で遠藤を招集。だがそれを最後に、日の丸から遠ざかっている。
 
 積み上げたキャップ数は152。ダントツの歴代トップで、現役だと岡崎慎司の108試合(歴代5位)が最高で、長谷部誠の104試合(同6位)、長友の93試合(同8位)と続く。いずれも30代に突入している。ヤットの大記録は当分の間、破られないだろう。
 
 文字通りの、鉄人である。
 
「まさかあそこまでとは、自分でも思ってなかった。長く代表にいたいなんて最初の頃は考えもつかないし、いたいと思っていれるものでもないし。何歳で選ばれて何試合出たいなんて、まずイメージしないでしょ。
 
 50キャップが2007年のアジアカップの時。ひょっとしたら100まで行けるんちゃうんってなんとなく思ってたら達成できて、100がザックの2試合目だったんだけど、まだ31歳だから、このまま2年頑張れば井原(正巳)さんの122試合は超えられるかもと、思ってたら超えれた。152試合って普通に考えたらすごい。ほとんど何年も休まずやったからね」
 
 狙うは、エジプト代表として活躍したMFアフメド・ハッサンが持つ世界記録(184試合)で、その差は32試合。さすがにその更新はきわめて非現実的だが、現役としてプレーするかぎりは、日本代表復帰を目ざすと断言する。
 
「やれるぞって自信はある。いまはリストには入ってないだろうけど、最後の最後で選ばれればいい。途中の過程なんて誰も覚えてないでしょ? アジアカップのメンバーは覚えてなくても、ワールドカップのメンバーは永遠に残るからね。俺が言うんだから間違いない(笑)。

 なんとか滑り込みたい。38歳で出たら、かっこいいよね。いまはとかく年齢で判断されがちだし、それを覆すチャンスでもある。さて、どうなるかな」
 黄金世代で鎬を削った同級生たちの多くは、キャリアのピークで欧州に活躍の場を求め、研鑽を積んだ。だが遠藤は、Jリーグでプレーし続けた。
 
 本当は行きたかったのか。挑戦するタイミングはあったのか。気になるところを直撃してみた。
 
 少しとぼけてはぐらかしながら、その葛藤を明かしてくれた。
 
「(機会は)あったんじゃないかな。行きたいクラブじゃなかったというか、プレーしたいリーグじゃなかったかもしれない。南アのワールドカップの前後あたり。前からそこは自分には合わないかなと思ってたし、ポルトガルやオランダ、ブラジルからいい話が来てたらもっと現実的に考えたかもしれない。
 
 なんにせよ、行く勇気がなかったんでしょ。いまはどんどん行く流れがあっていいよね。自分が20代前半なら絶対に行ってる。2部とかでもかなり面白いし、ガク(柴崎岳)くんなんてすごくいい選択をしたと思う。まずはスペインの文化にじっくり慣れつつ、ひとつ下のリーグで活躍して、いずれ1部の中堅クラブあたりに見初められて……。いいと思うよ。
 
 もっと身体をいじめて、劣る部分をもっとケアしてたら、ね。足が速くて身体能力が高かったら、間違いなくバルサでプレーできたと思う。アフリカ人のパワーとスピードが俺にあったなら」
 
 さて、避けては通れないのが、現役引退のその日だ。どんなイメージがあるのかを聞かせてほしい。
 
「何歳で終わるとかはないし、やれるかぎりはやりたい。怪我で辞めるのか、それともやり切ったって感じて終わるのかは分からない。
 
 ただはっきりしてるのは、どこで終わるのかじゃなくて、どうやって終わるのかが重要。このままガンバでやり続けて辞めたら、ひょっとしたらかっこいい終わり方かもしれないけど、最後のシーズンに『この1年楽しかったやろか?』って思えるかどうかが大事なわけで。どこか下のカテゴリーであっても、心の底から楽しかったなって感じて終わりたい。どうやって終わるか。そこだけはすごく意識してるかも」
 
 いま一度、問う。ヤットにとって、黄金世代とはなんなのか。どんな仲間たちなのか。
 
「何回でも言うけど、最強やったと思う。いまとなっては、もうライバルではない。一緒にやれたのが誇りで、いまも現役でやってる連中に対しては頑張ってほしいと思うし、もはや一ファンやね。ゴール決めたりとか、ファインセーブしてるのを見ると素直に嬉しいもん。ハッシー(橋本英郎)とかステージは違うけど、ヴェルディで試合に出てたら流石やなって思うし、自然と応援してる。完全にファン目線やね(笑)」
 
 最後に、答が「遠藤保仁」になるだろう質問で締めた。そしてまた、長い付き合いのはずのわたしは、読み違いをするのだ。
 
――プロフットボーラーとしてキャリアをやり直せるなら、もう一度、遠藤保仁を選ぶか? 選ぶでしょう!
 
「いや、そらメッシがいいよ。そりゃそうでしょ! 自分がないものを持ってるひとに憧れる。ないものねだりやね。絶対にメッシ! 
 
 あんだけゴール決めたらどれだけ楽しいか。メッシとかネイマールとか心底楽しそうじゃない? そこは彼らに憧れてるチビッ子と、感覚的に変わらないのかもしれないね」
 あれはたしか、遠藤がサンガに移籍してまもない頃だった。
 
 サンガの練習場は南京都の城陽にあり、わたしの実家がある枚方とは車で30分ほどの距離。彼と手島和希、辻本茂輝の黄金世代トリオをインタビューした流れで、3人に馳走しようとごう櫛はっきりしてるのは、どこで終わるのかが重要一路、割烹屋に向かった。わたしの両親が営む店だ。
 
 板前の父は鹿児島出身で、同郷の遠藤との会話がそうとうに楽しかったらしく(方言が難解で内容は半分しか理解できなかった)、帰り際、若き3選手にサインをねだった。じゃあせっかくなので目標を書き添えてくれないかと、わたしが頼んだ。
 
 19歳のヤット青年は少し遠くを見つめ、考え、さらっとペンを走らせた。
 
 ほかのふたりよりも小さな字で、「いつかは日本代表」と記した。
 
 いまも北河内の小さな料理店には、その色紙が大事に飾られてある。

(了)

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

※次回の「黄金は色褪せない」は、鹿島アントラーズの偉大なカリスマが登場します。6月下旬配信予定。ご期待ください!

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PROFILE
えんどう・やすひと/1980年1月28日生まれ、鹿児島県桜島町出身。桜州小、桜島中と地元チームでサッカーに親しみ、高校は名門・鹿児島実に進学。1年時から試合に出場し、中盤の要として奮闘した。1998年、横浜Fに鳴り物入りで入団するも、クラブは1年で消滅。翌年のワールドユースでは1ボランチでレギュラーを確保し、銀メダル奪取に寄与した。2001年には2シーズンを過ごした京都からG大阪へ移籍。以後、16シーズンに渡って浪速の雄の主軸として活躍し、2度のJ1リーグ優勝やアジア制覇など9つのタイトルを獲得した。02年のAマッチデビューから、日本代表での実働期はおよそ13年に及んだ。歴代最多152試合出場(15得点)は簡単には破られない大記録だ。ワールドカップには06年、10年、14年大会と3大会連続で出場した。Jリーグ・ベスト11は12回受賞(歴代最多)。09年アジア年間最優秀選手、14年JリーグMVP。Jリーグ通算/582試合・105得点(うちJ1は549試合・100得点)。178臓75繊AB型。データはすべて2017年6月4日現在。