おおらかな性格と魅力的な笑顔で、ニッキー・ヘイデンはあらゆる人に愛された。2002年にAMA(全米選手権)スーパーバイクのチャンピオンを獲得したヘイデンは、翌2003年に21歳でMotoGPのレプソル・ホンダ・チームに抜擢。2006年にはバレンティーノ・ロッシと最終戦まで激しいチャンピオン争いを繰り広げた末、年間総合優勝を達成。2016年からは戦いの場をスーパーバイク世界選手権(SBK)に移した。


2006年バレンシアGPでチャンピオンを決めたニッキー・ヘイデンのウイニングラン 2017年のSBKシーズン第5戦・イタリア大会(5月13日〜14日/イモラ)を終えたヘイデンは、同国内で自転車トレーニングを行なっていた際に自動車事故に遭遇。重篤な状態で病院へ搬送され、懸命の治療が続いたが、5月22日に35歳の若さで逝去した。

「ケンタッキー・キッド」の愛称で親しまれたヘイデンは、ホンダファクトリー時代からどんな物事に対しても真摯に取り組む姿勢で知られていた。プレシーズンテストでは、コースがオープンすると同時に走り出し、誰よりも多く周回数を重ねた。灼熱のセパン・サーキットでひたむきに走り込む彼の姿を評して、あるスタッフは「ニッキーの場合は『止まると死んじゃう病』だから」と笑いながら話した。

 そのヘイデンが所属していたレプソル・ホンダ・チームに、HRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)から山野一彦が監督として就任したのは2008年のこと。2006年に年間王座を獲得したチャンピオン監督・田中誠の後任だった。

「ニッキーとはAMA時代にすでに一緒に仕事をした経験があって、2003年の鈴鹿8耐に彼がセブンスター・ホンダ・チームから参戦したときも、私がチーム監督でした。だから、2008年にレプソル・ホンダ・チームの新監督として入ったときも歓迎してくれて、『じゃあ、これから一緒にがんばろう』とシーズンに臨みました」

 2008年は、前年からのレギュレーション変更でマシンの仕様が大きく変わってから2年目のシーズンだった。2006年チャンピオンのヘイデンは、2007年にランキング8位と苦戦を強いられ、2008年は契約更改を迎える節目の年になっていた。

「あの年は他社に対して我々のマシンが劣勢な部分も多々あったのですが、ニッキーにとっては勝負の年でもありました。なので、私の内心では、チャンピオンライダーとしてもう一度王座に返り咲かせてあげたい、そしてなんとかチームに踏みとどまってほしい、という使命感を持っていました。そういう厳しい条件下でも、ニッキーは常に前向きで、いつも目の前のレースに全力で走ってくれていましたね」

 だが、ヘイデンは結果的に年間ランキング6位と低迷し、翌年はドゥカティへ移籍することになった。

「監督1年目だったこの年を振り返ると、正直なところ、ニッキーと心から笑い合うことのできたレースは残念ながらありませんでした。ただ、パドックの中ではいろんなことを話したし、楽しい時間を過ごしました。本当に家族の一員のような雰囲気でしたね」

 山野によると、表裏のない性格、誰に対しても分け隔てなく接する素直で素朴な態度がヘイデンの魅力だ、と話す。

「とにかく、彼は嫌な表情を見せないです。ライダーって、ピットボックスの中と外では要所要所でいろんな顔をする場合があるんですが、でもニッキーの場合はそれがない。シャッターが下りたピットの中で、確かにマシンの状態に対してコンプレイン(不満)は言いますよ。でも、気分を害して声や態度を荒らげるような素振りは一切ないですね。皆に対して気を遣うライダーなんですよ」

 2009年からヘイデンはドゥカティの所属ライダーになったが、それでも山野はずっと身内のような感情を抱いていたという。

「奇妙に聞こえるかもしれませんが、彼がドゥカティに行ったあとでも、私にはホンダのライダーというイメージしかないんですよ。どこでどんなカテゴリーを走っていても、ニッキーは我々の仲間だとずっと思っていたし、それはこれからもそうですね。彼と仕事をした人は、どのチームや陣営であれ、きっと全員がそう考えていると思います。そういう不思議な雰囲気を持ってる人なんですよ、彼は。本人はまるで意識していないでしょうけれどもね」

(すでに気づいた方もいるだろうが、山野はヘイデンの思い出を語る際に、過去形ではなく、ほぼいつも現在形で話をしている)

 2010年を区切りに、山野は監督業務を終えてチームから離れるが、2014年にふたたびMotoGPのパドックへやってくる。この年から始まったMotoGPクラス内の「オープンカテゴリー」用として、ホンダが製作したRCV1000Rをプライベートチームにサービスするという業務だ。そして、そのマシンで参戦するチーム・ドライブM7アスパルに、このシーズンからホンダ陣営に復帰したニッキー・ヘイデンがいた。

「旧友に会ったような状況ですが、特に熱い抱擁を交わすようなこともなく、ごく普通に『やあ、ニッキー』という感じ。私としては、ずっと一緒にいるライダーという感覚でしたから。その後、去年の8耐にも私は関わっていたので、彼がMuSASHi RT HARC-PROから参戦してくれたときにも一緒に仕事をしました」

 その8耐終了後のパーティが、顔を合わせる最後の機会になった。

「パーティの時間に遅刻していたので急いでその場所に向かったら、ニッキーが会場の外にいたんです。急いでいたので、あ、ニッキーがいるなと思って声をかけて手を挙げると、向こうも挨拶を返してくれて、それが最後になりました。今から考えると、あのときにもっとゆっくり話をしておけばというのが残念ですが、でも、まさかそれが最後になるなんて思ってもいないですからね」

 ニッキー・ヘイデンがホンダの選手として走り続けた期間、山野とは何度も出会っては別れ、また出会う、ということを繰り返した。35歳というあまりに早い年齢で一生を終えてしまったこのライダーは、山野一彦という技術者にとっていったいどんな存在だったのだろう。

 そう訊ねると、山野はしばらく考える様子で黙り込んだ。そしてゆっくりと口を開き、「真のライダー、ですね」と述べた。

「世界中に数多くのライダーがいるなかで、彼ほど真摯にレースに向きあう姿勢は、ほぼ見たことがありません。誤解を恐れずに言えば、彼はけっして器用なタイプの選手じゃありません。ずばぬけた天才ライダーでもないかもしれません。でも、天才ではないがゆえに、彼は努力の大切さを誰よりもよくわかっている。そして、それが報われることを身をもって証明した。何事においてもあれほど努力をできる真のライダーは、ニッキー・ヘイデンをおいて他にはいないと思います。

 それはお父さんの教えだったのかもしれないし、お母さんの教えだったかもしれない。お兄さんや弟、姉妹のヘイデンファミリーの家族の和が、ニッキーを作っていったのだと思います。だから、彼は誰かのために努力をしなきゃいけないといつも思っているんですよ。自分自身のためではなくて。だからこそ、あれだけの努力ができるんだと思います」

 現在、東京・青山の本田技研工業本社1階ウェルカムプラザでは、ニッキー・ヘイデンの2006年チャンピオン獲得マシンRC211Vや彼のレザースーツ等が飾られ、記帳台も設けられている。この追悼展示は6月23日まで続く予定だという。

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