米首都ワシントンのホワイトハウスでパリ協定からの離脱を表明するドナルド・トランプ大統領(2017年6月1日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領が1日、地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定(Paris Agreement)」からの離脱を表明したが、長時間の粘り強い交渉を経た環境協定をはねつけ、米国が国際社会の忍耐力を試したのは今回が初めてではない。

 196か国・地域の賛同を得て生まれた地球温暖化対策の国際協定である2015年のパリ協定。世界規模として初となる国際協定が成立するまでの20年間における地球温暖化交渉への米国の関わり方をたどってみる。

■京都

 国連気候変動枠組条約が1992年にブラジル・リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)で調印された当初から、米国はいかなる温室効果ガス規制も「トップダウン」で各国に押し付けられるべきではないと抵抗した。

 米政府が一貫して主張してきたのは、どのガスをどれだけ、いかにしていつまでに削減するかを決めるにあたっては、国家主権が尊重されるべきという意見だ。

 1997年に米国が世界各国とともに合意した京都議定書は、地球温暖化の元凶とされる炭素排出において、最も責任のある富裕国だけに排出削減目標を義務付けるものだった。

 米国は、交渉相手からいくつかの譲歩を引き出した上でこの取り決めに同意。アル・ゴア(Al Gore)元副大統領が1998年に米国を代表してこの条約に調印したが、当時の米民主党政権は同条約の正式な批准に必要な上院の3分の2の支持を獲得することはできなかった。

 そして、クリントン氏に代わり2001年に大統領となった石油王のジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)氏は、父ジョージ・H・W・ブッシュ(George H.W. Bush)氏と同様に、発展途上国には化石燃料を燃やして経済成長への自由を認めながら、一方の富裕国を排出規制で縛るものだとして同条約に反対した。

 同議定書は2005年、ロシアの署名によって発効要件である55か国以上の批准を達成し、米不参加のまま発効した。

■コペンハーゲン

 2009年、京都議定書に代わる新たな協定を策定するため、世界中の国がデンマークのコペンハーゲン(Copenhagen)に集まった。二酸化炭素(CO2)排出で世界第1位の中国と第3位のインド、そして第2位の米国を含むすべての国に行動を義務付けることが目的だった。だが交渉は、二酸化炭素削減の責任分担をめぐり富める国と貧しい国とが対立し、ほぼ失敗に終わった。

 米国は他国の支持を受けながら、いかなる合意も上院の批准が必要となる「条約」と表現しないようにする、または国際法の下で拘束力を持つ排出規制を含めないようにするべきだと主張した。

 結局、同会議では公式ではない「合意」が成されたのみで、地球の平均気温の上昇を産業革命前と比べ2度未満に抑える目標をうたったが、具体的な削減目標や期限については明記されなかった。

■パリ

 2011年、南アフリカのダーバン(Durban)の会議で、2015年までに次の国際的枠組みを完成させるという目標が打ち立てられた。

 バラク・オバマ(Barack Obama)前米大統領は中国の習近平(Xi Jinping)国家主席とともに、195か国の先頭に立って共通の目標を目指した。だが共和党が上院を支配するなかでオバマ大統領にできることは限られていた。

 各国は温暖化を抑制する包括的な目標と目的を取り決めることで合意したが、それは妥協の産物だった。

 このため各国に求められる排出削減は、別の法的拘束力のない記録に記載され、「公約」ではなく「貢献」と表記された。

 これによって、オバマ前大統領は上院の承認抜きで協定を批准することが可能となり、米国は2025年までに排出量を2005年水準から26〜28%削減すると約束した。

 だが、それはまた協定離脱と公約違反をしたとしても、米政府への反発は、せいぜい外交的な冷遇にとどまるということも意味している。
【翻訳編集】AFPBB News