1940年代の土地改革運動で、共産党員に罵倒される地主や富豪(public domain)

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 銀貨、食料、住宅、綿花―。全財産を寄付し、一文無しになったにもかかわらず、裏切り者扱いされ失意のなか死んでいった名士がいる。40年代後半、「階級闘争」を掲げる中国共産党は土地改革運動を行い、土地を回収するために地主や自営農民を虐殺した。嘘と裏切りの性質を持つ共産主義に幻想を抱いたがために、不運に見舞われ失われた尊い命は数知れない。

 形は異なれど、中国共産党のイデオロギーにユートピアを見出すならば、現代であっても、これから紹介する名士の人生のような不幸を迎えることになりかねない。中国共産党を信じることには、大きな危険をはらんでいる。

勉学に励み、若くして学校を設立した牛友蘭

牛友蘭氏とされる人物の肖像
(Public Domain)
 

 牛友蘭は、1885年に山西省興県の名士の家に生まれた。幼いころから勉学に励み、祖国を繁栄させるには教育を普及が必要だと考え、24才で地元に高級国民中学を設立した。

 しかし、1937年に日中戦争が勃発すると、反日を訴えた中国共産党の八路軍に「国家の復興」との希望を抱いて、物資や金銭を提供した。記録によると、子弟に共産党に加入するよう勧めていたという。牛友蘭は十数人の親族を、党の指導者の毛沢東が住む延安に移住させて「革命思想教育」を受けさせたり、八路軍に参加させたりした。

 中国共産党へ提供する物資を生産するため、1937年、牛友蘭は1万元出資して興県民衆生産販売合作社を設立。生産した布製品を八路軍に供給した。のちに、晋西北地域最大の縫製工場へと発展した。牛友蘭は設立時から工場長と経理を務めたが、特別な待遇は一切受けなかったという。1941年、晋西北貿易総局顧問に就任し、工場を離れた時にも、会社から何も取らなかった。

 牛友蘭は熱心に、共産党の描くユートピアに幻想を抱いていた。毎月、銀貨100枚を中国共産党に活動費として支援した。また、自らの邸宅を八路軍に明け渡して司令部として使用させた。中国共産党の将軍賀龍と関向応率いる八路軍第120師団が晋西北に進駐し、軍需品が著しく欠乏していた時には、多くの綿花や布を供給し、一個師団の越冬用品に充てた。

熱心に共産党の描くユートピアに期待 財産を寄付し一文無しに

 

 さらに150石の食料と銀貨2.3万枚の軍資金を提供し、興県農民銀行を創設して中国共産党の財政問題を解消した。統計によると、日中戦争時に、牛友蘭はほぼ全財産を投げうって、合計で銀貨35000枚を支出し、2万キロもの食糧や、大量の綿花や布、石鹸、タオル等の各種生活必需品を提供した。

 1942年5月、牛は晋西北の名士を引き連れて延安を参観し、毛沢東とも対面した。牛は故郷に帰ると、延安の「良い経験、良い作風」を盛んに宣伝した。しばらくして、牛友蘭は晋西北臨時参議会議員となった。

「極悪地主」共産党の裏切り

1939年、延安で、抗日思想を説く大学を作り演説する
毛沢東(Hulton Archive/Getty Images)
 

 1940年、牛友蘭は中国共産党の政策にこたえ、借金帳消し運動に乗って小作人の借金を自ら踏み倒した。1942年からは、村はずれの廃屋を住まいにしていた。

 歴史の記録によると、牛友蘭は中国共産党の革命事業に賛同し、私財を捧げつづけたにも係わらず、名士であったがために、残酷極まりない中国共産党の土地改革運動の対象者になった。

 悲劇は1947年の秋から始まった。9月18日に行われた農民大会で、共産党の支局書記・軍区政治委員李井泉は農民に牛友蘭を罵倒するよう呼びかけた。「牛家はかつて興県の全住民を圧迫し、虐げてきた。無慈悲に、徹底的に地主を批判しよう。皆怖がるな。共産党は後押ししよう!」。

 1947年9月26日、牛友蘭を批判する「闘牛大会」が開かれた。牛友蘭の息子で中国共産党晋地域行政公署副主任、党組書記の牛蔭冠も、停職処分を受けて中国共産党辺区党学校で調査を受けていた。彼も親の批判キャンペーンに参加させられ、実父と決別することを要求された。

「闘牛大会」には付近の村落の住民も参加した。牛友蘭は手錠と足枷をつけられ、ほかの地主や自営農、「悪い幹部」とともに、主席台の前にひざまずいた。あらかじめ決められた者が「極悪地主の牛友蘭を打倒せよ!」と叫び、批判会が始まった。

 すると、中国共産党が事前に訓練を施した「積極分子」たちは次々に登壇し、牛友蘭の「罪悪」を暴いた。闘争が最高潮に達したとき、数人の「積極分子」が牛友蘭を地面に押し倒し、針金でもって彼の鼻を貫いた。そして牛の息子を呼び出し、「来い、牛蔭冠。老牛を引っ張って町中を練り歩け」と大声で叫んだ。牛友蘭は驚きと怒りのあまり、息子を見て頭を振った。すると針金で繋がれた鼻の軟骨が引き裂かれ、地面は血で真っ赤になった。

 屈辱に耐えきれず、牛友蘭は家に帰ると絶食して抗議した。家財を投げ打ち、困難に陥った共産党軍を助けたにもかかわらず、闘争の対象とされたのだ。まして自分の息子に引っ張られて町を歩かされる屈辱と絶望感は、決して耐えられるものではなかった。

中国内戦下の共産党軍。1948年、人民解放軍により包囲された街(パブリックドメイン)

 闘争大会の三日後、1947年9月29日に牛友蘭はこの世を去った。享年63。毛沢東と面会し、称賛された地方名士が、共産党の手によって屈辱を受け、耐えきれずにこの世を去った。

 「山西歴代記事本末」の「旧解放区土地改革運動」編には当時の悲惨な状況が記載されている。「1948年6月22日の統計によると、興県の8つの地域合計290個の村で、殺された人数は1050人。内訳として、地主380人、裕福な農民382人、中流農民345人、貧農小作農40人。また、自殺者は863人。内訳として、地主255人、裕福な農民285人、中流農民310人、貧農小作農11人。そのほかに、批判され家から追い出されて餓死凍死した者63人」

 一行政区でさえこの惨状だ。中国共産党の「解放区」全体で考えると、絶望に打ちひしがれて亡くなった者の数は、どれほどに上るのだろうか。

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(翻訳・文亮)