AIがシナリオライターへの道を歩み出した。と言うと、あなたはどんなAIを思い浮かべるだろうか? 例えば人間抹殺計画を自らのメモリーに記したHAL9000のようなAIか? それとも、電気羊の夢を書き留めるアンドロイドの姿だろうか? 最先端技術であるAIがシナリオライターとなる姿など、もはやSFの展開を思い浮かべるしか他にない。そもそも、AIの想像力が映像化された時、わたしたちの想像力を超えることができるのだろうかという、疑問が残る。

映画『Sunspring』と『It's No Game』。どちらもAIが脚本を書いたことが目玉として紹介される作品だが、果たしてこれらの映画を鑑賞する我々は、そこにどのようなAIが用いられており、何が起きているのか理解しているだろうか?

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『Sunspring』は、Benjaminという名のニューラルネットワークAIが書いた脚本を元にして作られた短編映画だ。そのBenjaminが執筆した脚本を元にした、新たな短編映画『It's No Game』が作られた。本作には80年代のTVドラマ『ナイトライダー』などでお馴染みのデイビッド・ハッセルホフも登場する。



動画はArs Technica Videosより。

作中では、ストライキを予定する脚本家連盟代表者2人が映画会社に招かれ、「AIが脚本を書けるようになったから脚本家はもういらない」と宣告される。そしてそのシナリオは、実際にAI自身によって書かれているのだ。

『Sunspring』との一番大きな違いはなんだろうか? それは、この作品には意味のある筋書きがあるということだ。脚本担当にBenjaminの名しか入っていなかった『Sunspring』とは違い、『It's No Game』には「Benjamin 2.0, Oscar Sharp, and (writer of Benjamin 2.0) Ross Goodwin」と3名の名前が記してある。「Benjamin 2.0のライター」となっているのはテクノロジストのロス・グッドウィン(Ross Goodwin)、そしてオスカー・シャープ(Oscar Sharp)は『Sunspring』と本作の監督だ。つまり人間が加担しているのである。

この作品自体はBenjaminを解説するセルフパロディのような内容となっている。作中の脚本家に言わせているようにBenjaminの作り上げたセリフは「意味をなしていない!」。「シェイクスピアはただの無限の猿定理ではない」、「こんなジャンクを誰が見たいと言うんだ?」と言った具合だ。そして脚本家らに対し「人によって書かれものを人が演じ、人が鑑賞するなんて過去のもの」、「機械が作り、機械が観るの」とAIに答えさせているのは人間であるシャープだろう。

AI脚本家「Benjamin」とは何(者)か

『Sunspring』ではBenjaminが「80年代と90年代のSF」という大きな枠の中で使われた、と『It's No Game』では語られる。またBenjaminを脚本家として進化させるためにより限定された具体的な枠組みで使用し、その結果人間の脚本家たちが必要ではなくなったというのである。その限定的な枠組みというのが、コーパス(参考資料としての言語データ)だ。本作中では、「Hoffbot」、「Robobard」、「Golden-Age O-Matic」、「Sorkinator」、「Balletron」、「最後のハッセルホフの語り」がそれぞれ、デイビッド・ハッセルホフ作品群、シェイクスピア全集作品、ハリウッド黄金時代の映画群、より近代の映画作品群、バレエ用語、「The Cornell Movie Database」(下の注釈を参照)をコーパスとして使用している。

ハッセルホフの最後の語り部分は「The Cornell Movie Database」が用いられているとされているが。まったくそれと同じ名称のものはぱっとグーグル検索した限り見つからず、もしかしたらコーネル大学コンピューター科学部による「Cornell Movie--Dialogs Corpus」というコーパスのことかもしれない。これは映画の脚本中から集めた「架空の会話」からなるコーパスだ。

Benjaminにとって「創作の種」となる、予め人間が入力した「プロンプト」には、以下のものがあげられている。作品のタイトルである『It's No Game』、セリフ「タイミングがすべてだ、それはお前に言うまでもない」、小道具と行動「湯気の出る液体の入ったマグカップ、一人のキャラクターが液体を嗅いでから注ぎ捨てる」、科学人間『ブラックボックス』レコーダーが動きとインタラクションをトラッキングする」。

Benjaminは、RNN(Recurrent Neural Network/再帰型ニューラルネットワーク)とLSTM(Long Short-Term Memory)が動いている、SoC(System-on-a-chip)コンピューターとGPUでできたもの。RNNの説明に関してはQiitaの「再帰型ニューラルネットワーク: RNN入門」からRNNの言語モデルと文章生成に関する部分を引用しよう。

言語モデルは、連続した言葉の中で、直前の言葉を利用して次の言葉の出現確率を予測することができます。

「RNN入門」によればLSTMはこのRNNの一つであるとのこと。LSTMに関しては『Sunspring』に関するFUZEの記事に説明してもらおう:

LSTMとは、「long short-term memory」の頭文字で、「過去の単語列を元に、次にくるべき単語を予測する」システム。

つまりBenjaminは直前の言葉、例えば「I want to」までが直前の言葉だとすれば、次に来る言葉の出現率を予測、そして「go to the movies」などそのあとに来る可能性のあるものを配置していくというわけだ(実際には「I >want」、「I want >to」、「I want to >go」、「I want to go to >movie」など細切れにされて計算されているのかもしれないが)。つまり、作中の脚本家が言っているとおり、Benjaminはそれが並べだす文字列の意味を理解して書いているわけではない。結局Benjaminのしていることは、事前に設定されたコーパスを用いて、スマホの文字予測入力機能を再現している程度に過ぎないし、『It's No Game』作中に見て取れる言語能力からしてもその程度のものだろう。

本作中では、未来についても語られる。人間にデバイスが取り付けられるようになって、喋ったことや行動をすべて記録し、彼らの好みや感情や投票などの好みから人格もコピーして、人々からキャラクターを生み出す...我々の身体を選択という苦悩から開放する...などと(たぶんシャープによる脚本を元にした)未来が語られるが、現状のBenjaminの能力も、『It's No Game』作中で語られているこの未来像も、我々の生きる現在の日常以上のものではない。これまでに入力してきた情報を元に、新たに入力する際にその人物が何を書きそうかを文字入力システムが選び出す。よくツイッターで流行っている「#XXと入力して予測変換されたものをツイートする」などにもみられる、何気ない日常の文字入力は、見方を変えれば「好みや人格をコピーし、その人らしいキャラクターを生み出す」ことにほかならないし、「選択という苦悩からの解放」という意味では、消費者の傾向から好みの商品を提示するアルゴリズムなどでもすでに見られるものだろう。

そんな日常が私たちにとってすでに存在する中で、意味をなしていない文章しか作れない現状のBenjaminの創作に我々はエンターテインメント性を見出し、感心するだろうか(無限の猿定理的に偶然おもしろい文章が出てきたりすれば話は別かも知れないが)。それよりもクレバーボット同士が互いに話をする動画のほうが文脈が成立していて、見ていてずっと面白いはずだ。



人工知能による創作の本質

もしかしたら筆者のニューラルネットワークAIに対する理解が欠けているためにBenjaminの凄さがわからないだけなのかもしれないが、現状のBenjaminは表面的には前世紀からあるような、ただ単純にコーパスからランダムな言葉を並べだすプログラムとさほど違いがあるように思えない(実際にはLSTMという仕組みのお陰である程度文法的な形になってはいるが)。

Benjaminの打ち出すナンセンスな文章は、それがナンセンスであるという認識のもと書かれたナンセンス文学のそれとも違う。形こそ文章のように見えるものの、ただランダムに並べられた言葉の羅列でしかない。コーパスを元にしてして文章らしい何かを作ってはいるものの、文章として成り立っていなかったり、会話として成り立っていない。それがシェイクスピアっぽい、ハッセルホフっぽいのはコーパスが違うせいであり、結果出てくるものが元になったコーパスに対して確率的に多く含まれる言葉の流れを含んでいるという点においてのみ「シェイクスピアっぽさ」を持っているだけで、文章として意味をなしていないという点ではシェイクスピアっぽさは微塵もないのだ。

この作品を、未来を描いた話ではなく現代の風刺と捉えればまだ意味のあるものに思えるだろう。お茶に入ったナノテクノロジーで人間がAIの作った脚本通りに演じさせられる、という安っぽいSF要素こそ入ってはいるが(それ自体はBenjaminの書いた脚本を基に演じる俳優たちの風刺と観ることもできる)、作品としてはすでに存在する現在の技術のその先を考えたものでもなければ、未来像を描いた作品でもない。ニューラルネットワークの未来、AIの未来を考えるのであれば、『It's No Game』が語る薄っぺらい未来像よりも、テレビドラマ『ブラックミラー』の「Be Right Back」というエピソード(SNSでの発言や行動などからその人自身を再現するAIが描かれている)などのほうがずっと良いだろう。


ブラック・ミラー <シーズン3> 予告編 - Neiflix via Youtube


本作の本質はニューラルネットワークAIの凄さを人に示すものでもなければ、エンターテイメント性にもない。その本質は、「シェイクスピア」などの作品をカットアップ技法で構成するための道具としてBenjaminで脚本を作り、それを元に俳優たちが演じるというダダイズム的な作品にあるのではないか。Benjaminが既存の文章を再構築して作品を作っていることからも、これらをレディ・メイドやコラージュに例えてもいいかもしれない。「無限の猿定理」への言及からも、作り手たちがこれを認識して作っていることが見て取れる。

その言及は同時に「人工知能の書いた脚本」に対する観客の期待への弁明にも思える。前作『Sunspring』では、Benjaminの出力した内容を俳優がどう読み取り、演じるか、という部分が現れていたことによって、より作品としてのまとまりができていた。しかし、それは脈絡もなく繋げられた文章の羅列に、意味を見出そうとする人間の俳優の作為が組み合わさってできたことだ。弁明じみた今回の『It's No Game』では、出力されたセリフを「ただの切り刻まれた文章」という認識のもとで演技させ、さらにシーンそのものも細切れにカットしてしまっている。しかもそれらを作為的に人の手で造られたストーリーによりまとめあげてしまったことで、Benjaminの書いた部分はただの言葉の羅列以上のものに昇華されることはなかった。

これは、「人工知能」「ニューラルネットワーク」などの流行りのキーワードに対して我々が脳内に関連付けたイメージから、勝手にそれらを凄いものだとか「人間のように考えるAIが創作したもの」だとか決めつけてはいけないことを示している。それらは何を意図して人工知能を用いられ裏側では一体何が起こっているのかについて考えるべきであることを思い起こさせる作品なのかもしれない。

道具は創作者になりうるのかーAIと人間の関係性

Benjaminがこれまで浴びてきた注目からも(その注目は主に「人工知能が映画脚本を書いた!」という的はずれな期待からくるものであったが)、ダダイズム的なカットアップ文章を書くアーティストの「道具」としてはBenjaminは成功していると言えるかもしれない。アート性を軸に作られたであろう人工知能Benjaminが、意図的にエンターテイメント性を持ちつつ意味を成す筋書きを書くようになるには、Benjaminのコア部分が書き換えられるほかはないだろう。今後Benjaminがもっと膨大な量のコーパスから学習し、意味の通る文章の流れを作れるようになれば話は別だが、それもBenjamin自体に課された仕事ではないはずだ。

大衆向けエンタメ作品の脚本家としての人工知能は、今は限定的なものにとどまっている。大ヒットした映画の設定や流れだけを取り入れ起承転結に分けてコーパスとする。そこからLSTMを用いて脚本のベースとし、人間が詳細を書き出すようにすれば、現在のBenjaminにも面白い脚本の原案が生み出せるかもしれない。事実ギズモードで取り上げられているように、AIと人間が半々に脚本を担当するホラー映画プロジェクト『Impossible Things』は(実際の映画の出来がどうなるかは別として)、AIの特性を理解した上で映画のプロットを分解し、観客受けするようにプロットをつなぎ合わせるためのNLP(Natural Language Processing)AIが用いられている。しかし実際のプロットを作り上げるのは人間の仕事だ。

Impossible Things teaser trailler via Facebook


他にもAIスリラー映画『Morgan』のシーンをIBMのWatsonが分析して予告編を製作したりもしているが、これも実際にはWatsonが選出したカットを人間が編集したものだ。このように、今のところは全てをAIに任せることはできない。これまで人間が作り上げてきたどのツールともAIは変わらないのだ。いつか自主性を備えたAIが登場するまでは、我々が現在「人工知能」、「AI」と呼ぶ存在は人間の道具であり、道具として利用される存在以上でも以下でもないだろう(この関係性の主従は逆転しうるが、道具に使われてもなお、人間は主に戻る意思を持つことができる)。

他人に命令されて作り上げたものを創作物と呼んでしまうのであれば、Benjaminは創作者と言えるかもしれない。しかし自らの意思において創作の決断を行い、自らの作品を部分的にでも理解できるAIが現れるまでは、それはただの大げさな計算機に過ぎないことを鑑賞者は忘れてはならない。しかしこう断言することはまた、他人に命令されて創作物を作り上げる人間(例えば雇われ脚本家とか)と計算機であるAIとの境界線をあやふやにすることにもなる。そして、真に創作ができるAIが登場する時代が来るとすれば、それはこの境界線がよりあやふやになった未来の、そのまた先のことだろう。