今季も開幕から左ウイングバックを主戦場に戦い、最近のリーグ戦では右ストッパーも務めた。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

写真拡大 (全3枚)

 浦和レッズのMF宇賀神友弥が初めて日本代表に選出された。年代別での代表歴はなし。29歳という年齢を考えると、即戦力として期待されての招集だ。
 
 ハリルホジッチ監督は次のように宇賀神招集の意図を語る。
 
「ずっと長い間追ってきたひとり。彼の監督(浦和のペトロヴィッチ監督)とも話をしてきた。4バックの左として考えている。右もできるかもしれない。最近は3バックの右ストッパーでもプレーしていた。過去、このポジションにいろいろな選手を呼んできたが、今回は彼の番。若くはないが、経験がある。この合宿でどのような活躍を見せるのか楽しみにしたい」
 
 浦和ユース出身者としては山田直輝(現・湘南)、原口元気(現・ヘルタ・ベルリン)に続いて3人目。ユースから大学を経由しての代表入りは、浦和では初めてのケースだ。
 
 しかも宇賀神のキャリアは異色だ。浦和ユースから同期で昇格できたのは、堤俊輔(現・福岡)、西澤代志也(現・栃木)、小池純輝(現・愛媛)の3人。宇賀神はトップ昇格を逃した。
 
 トップチームに昇格できなければ就職をすると両親と約束していた。しかし2005年9月の全日本ユースで3試合連続ゴールを決めて、浦和ユースのベスト16入りに貢献。そこで「まだ、俺はできるはず」と、サッカーを続けようと決めた。
 
 多くの同期生が進路を決めるなか、残すは2校しか残っていなかったうちのひとつ、流通経済大のセレクションを受けて合格。両親に懇願し、入学の“許可”を得た。
 
 ところが流経大では200人を超す部員のひとりに過ぎず、雑用係をしばらく担当した。先輩たちが使う水や氷の準備やボール拾いはもちろん、「誰よりも上手く刈れた」と練習場の草刈りを究め、さらに「そのために1週間、茨城県の波崎に泊まり込んだ」という大会やイベントの副審要員にも駆り出された。
 
 エリートの1年生選手は、JFLを戦う2軍、さらに関東リーグを戦う1軍にも絡んでいた。が、宇賀神は4軍相当の1年生チームでの出場も限られた。
 
 2年時、3軍の関東社会人2部リーグに所属するドラゴンズに加わった。そこで川本大輔コーチの下、地獄の猛練習を積んで、逞しさを増していった。宇賀神はチームの中盤の中心選手として活躍。そして同リーグのベストイレブンに選ばれた。
 
 3年の夏に一軍入りを果たし、人生初のサイドバックにも挑戦した。中野雄二総監督からの「持ち味は前に仕掛ける姿勢。絶対に後ろに下げるな」というアドバイスを胸に、ボールを持てば、まず仕掛ける姿勢を貫き、ドリブルやキックに磨きをかけた。
 
 ただプロを目指す宇賀神のもとには4年生になっても、Jクラブからは一向に声が掛からなかった。JFLの企業チームが獲得を検討しているという話を知り、心も揺れた。
 
 そんななか、浦和から練習参加の声が掛かったのだ。フォルカー・フィンケ体制下、クラブは若返りを進めていた時期だ。浦和にはユース時代の顔馴染みもいたが、宇賀神にとっては、ある意味、ライバル。この唯一無二のチャンスを掴むことに、まさに必死だった。そして浦和の練習場である大原グラウンドで、「流経大の代表として、4年間の想いをぶつけた」。
 
 執念が結実し、宇賀神は浦和の特別指定選手に認められる。さらに、その後はまさかの展開が待っていた。浦和、さらにアビスパ福岡からオファーが届いたのだ。
 
 ここで再び宇賀神は人生の選択に迷った。出場チャンスの確率が高そうなJ2の福岡に行くべきか、J1の“古巣”でプレーすべきか。その迷いを先輩にぶつけてみたなかで、ひとつ上で鹿島に進みながら出場機会を得られずにいた宮崎智彦(現・磐田)からの「俺はアントラーズを選んで正解だった。なんの後悔もしていない」という言葉が心に突き刺さった。