『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉 雅也 (著)文藝春秋

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斎藤哲也さんの連載「補助線としての哲学」。3回連続で番外編「いま読むべき3冊の思想書」をお届けしてきました。最後となる第3回は千葉雅也さんの新著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を取り上げます。斎藤さんはこの3冊について「愚かさを増しつつあるこの世界に抵抗するための“希望の書”」といいます。その理由とは――。

■深く勉強するというのは、ノリが悪くなること

人文書の世界でこの春、「祭り」のような盛り上がりを巻き起こした注目の3冊を紹介する番外編。最後の1冊である千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』は、ざざっと頁をめくると、人文書とは思えないほど改行が多く、ビジネス書や自己啓発書のように重要な語句やフレーズは太字になっている。うっかり書店のビジネス書の棚に「誤配」されていても、何の違和感もない。

が、その軽薄そうな装いとは裏腹に、中身は濃密な哲学的勉強論が展開されている。たいていの勉強指南本は、学生対象であれ、社会人対象であれ、「勉強することはいいことだ」という前提を疑うことはない。

ところが本書はのっけから、こんなことを言う。

<深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである>

<勉強とは、自己破壊である>

このあたりを読むだけでも、本書が、いわゆる勉強指南本とはまったく異質の内容であることが伝わってくる。では、ノリが悪くなったり、自己破壊をしてまで勉強することの目的は何か。それは、これまでのノリから「自由になるため」だという。

<私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められてきた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです>

そこで本書は、自由になるための勉強として「言語」に焦点を定める。なぜか。「言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して『距離をとる』ためのものでもある」からだ。

言語は、人を縛りもするし解放もする。だから、言語の解放的な力を知り、それを自由に操作できるようになれば、自分を縛る環境のノリから外れることができる。そんな言語偏重になるための勉強を、著者は「ラディカル・ラーニング」と呼んでいる。

なにやら抽象的な話に聞こえるかもしれないが、そうではない。「英語をちゃんとやれば、英語的なノリへの引っ越しが起こる」というように、対象は何であれ、深い勉強は、言語偏重になるラディカル・ラーニングへと通じているのだ。

■「アイロニー」と「ユーモア」で思考する技術

ここから本書は、ラディカル・ラーニングためのテクニック、すなわち、「アイロニー(=ツッコミ、根拠を疑うこと)」と「ユーモア(=ボケ、見方を変えること)」という二種類の思考スキルへの考察に入っていく。

著者は、この二つの思考スキルを、場からわざと「浮く」ための方法論として提示している。その意味で本書は、『「いき」の構造』(九鬼周造)ならぬ「浮きの構造」を哲学する内容にもなっている。

和気あいあいと話しているなかで、そのノリの根拠を疑うようなことをいう(=アイロニー)。何かの話題を話しているなかで、別の見方を差し挟む(=ユーモア)。深く勉強するためには、この二つのステップを踏んで、わざと浮いてみなければいけない。

<勉強によってノリが悪くなる。キモくなる。小賢しくなる。勉強する以上、それは避けられない。それが嫌であれば、勉強を深めることはできない>

アイロニーとユーモアというペアの道具立ては、勉強のテーマを見つける方法としても有効だ。実際、第3章では、仕事や結婚、アニメといった生活現場から「勉強の芽を育てる方法」が具体的に説明されている。

本書の勉強論は、思考スキルとしても、具体的な実践場面でも、アイロニー→ユーモアという段階を経る。アイロニーの段階では、根拠を疑い、深く考える。でも疑いすぎると、自縄自縛になる。それを回避するために、発想を横にズラしていくユーモアによって、別の可能性、別の発想をたくさん考えられるようになる。

が、さらにその先がある。それが本書のもうひとつのキーワードである「享楽的こだわり」を分析し、変化させていく段階だ。

勉強をしようと思うと、「あれもこれも」とキリがなくなる危険性が待ち受けている。英語も歴史も社会学も勉強したくなってくる。さらに英語、歴史、社会学のなかにも、さらに個別のテーマがたくさんある。そのなかで、とりあえず何かを勉強してみる。その「仮固定」を後押しするのが、自分に固有の「こだわり」だ。

■「自分の根っこにあるバカさを変化させる」方法

そうした「こだわり」を自己分析してみる。そのための方法として、本書は、「自分が何を欲望してきたか」という「欲望年表」をつくることを提案する(著者自身の年表も掲載されている)。

そこから見えてくる自分の「享楽的こだわり」とは、「自分のバカな部分」であるという。この「バカな部分」は、特定の勉強へと踏み出す足がかりになってくれる。同時に、深い勉強をすることで、バカな部分は変化する可能性がある。

<勉強の視野を広げ、自分の享楽を分析しつつ勉強を続けることで、あるバカさが、別のバカさへと変化する。ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにあるバカさを変化させる。バカでなくなるのではない。別のしかたでバカになり直すのです>

<これが、本書のサブタイトルで言う「来たるべきバカ」ということです>

ビジネスの世界には、PDCAサイクルというものがあるが、本書の哲学的勉強論は、アイロニー→ユーモア→享楽的こだわり、というサイクルをまわすことだと言えるだろう。

こうした原理論のあとに、勉強を継続するための具体的なテクニックが紹介されている。本の探し方、読書の仕方、エバーノートやアウトライナーを使ったノート術など、著者の経験もまじえた「知的生産の技術」は、サービス精神たっぷりのお役立ちパートだ。

さて、僕は本書もまた『中動態の世界』『観光客の哲学』と並んで、愚かさを増す世界に抵抗するための書として位置づけたい。補論でも触れられているが、本書のいう「深い勉強」とは、自分を縛る環境・統治に抵抗するための勉強でもあるからだ。

さらに本書は、これまで紹介した2冊ともさまざまに共振している。たとえば『中動態の世界』もまた、言語の考察を通じて、自由への道を展望するものだった。『観光客の哲学』とも「偶然性」「有限性」「他者」という主題で通じているし、勉強を観光として捉える見方もできるかもしれない。

3冊いずれも、哲学・思想に関心のない読者でも十分読み通せる。そしてビジネス書や自己啓発書では味わうことのできない、深い思索、深い勉強へといざなってくれる。「春の哲学書3冊」はセット読みがオススメだ。

というわけで番外編はこれにて終了。次回からはまた平常運転に戻ることにしよう。

(フリー編集者・ライター 斎藤 哲也)