皇太子ご夫妻が10年ぶりに見守る中、幕を開けた大相撲夏場所。初日の前売り券は発売後1時間半で完売し、当日券を求める長蛇の列が続いた。横綱・稀勢の里(田子ノ浦部屋)が初優勝から3連覇すると、大横綱・双葉山以来、80年ぶりの快挙となる。注目度は抜群だ。

 残念ながら、稀勢の里の3連覇は難しい状況だが、彼らが目標とする天皇賜杯が幕内優勝力士に贈られるようになったのは90年前。その間の相撲の歴史を調べてみると、知らない話がいっぱい。そんな“大相撲の謎”に迫ってみよう。

■意外と知らない…各界(珍)知識

 国技館が両国に誕生したのは、明治42年(1909年)。それを契機に、現在の優勝制度が始まった。『大相撲あなたの知らない土俵の奥』(実業之日本社)の著者で『スポーツ報知大相撲ジャーナル』編集長の長山聡氏が、こう言う。

「相撲は古来より、2つの勢力に分かれて戦うもので、江戸時代は東方と西方が存在していました。相撲の制度が整い始めた江戸の享保年間頃から、同じ勢力内での取組はなく、東方の力士は、西方の力士としか対戦しませんでした。その後、国技館のオープンを機に、相撲協会は東西の勝ち星の多いほうを団体優勝と定め、優勝旗を授与するようになりました」

 チーム対抗戦とも言える制度だが、これには常に矛盾がつきまとっていた。「当時、東西それぞれに番付が決まっていたからです。たとえば、東方が大差で優勝したら、東方の力士は大勝ちしても番付がそれほど上がらず、逆に勝ち越しながら、翌場所の番付で地位を下げられるケースもあったんです」(前同)

 逆に大負けした西方の力士は、負け越しながらも番付が上がるケースもあったという。「相撲はあくまで個人競技。そもそも団体戦という性質に合わなかったんですね。国技館が開館した場所から、個人の最優秀力士という形で国技館内に優勝額が掲げられるようになるんですが、それは時事新報社(戦前の5大新聞)の懸賞扱いだったため、あまり注目されませんでした。当時は引き分け、預かり制度があり、明治42年の夏場所で前頭七枚目の高見山が7勝3分で第1回の優勝力士扱いとなるんですが、大関・太刀山の8勝2敗と、どちらが優勝に相応しいか、にわかに判断はつきません」(同)

 ちなみに“預かり”とは、物言いのついた相撲などで、勝敗を決めない場合などに適用されたという。個人の優勝を制度として確立させたのは、90年前の大正15年(1926年)。「天皇賜杯(当時は摂政賜杯)が幕内最優秀成績者に授与されたことがきっかけでした。同時に引き分け、預かり制度などをなくし、取り直しが制度として導入されました」(同)

 その賜杯にも謎がある。大正14年、当時の摂政宮(のちの昭和天皇)の誕生日に東宮御所で相撲大会を開いたのが契機となり、賜杯が作られたのだが、今のものとは違うのだ。というのも、その“幻の賜杯”には皇室の菊の紋章が刻印されていたのだが、宮内省と内務省などからクレームが入り、鋳つぶされてしまったためだという。その後、新たに作られたのが今の天皇賜杯。その「賜杯を抱く」ことを目標に、国技館の土俵で熱い戦いが繰り広げられているが、その賜杯の誕生がもう一つ、意外な効果を相撲界にもたらしたという。

「江戸初期には京、大坂が相撲の中心でしたが、江戸中期の天明頃からは江戸がその中心となり、京、大阪を凌駕。その後、大正時代に入り、東京で賜杯が作られたのを機に、滅亡寸前だった大阪相撲協会を東京相撲協会が吸収合併し、大日本相撲協会(現・日本相撲協会)が発足したんです」(同)

 試行錯誤を繰り返しながら、現在の大相撲ができあがったわけだが、まだまだ驚いてはいけない。稀勢の里が、19年ぶりの日本出身横綱となり、ますます注目を集める「横綱」にも、意外な秘密が隠されていたのだ。「大関は2場所連続で負け越せば陥落します。横綱の場合、降格しないというのが常識になっていますが、そんなことは誰も決めていなかったんです」(同)

 横綱が横綱でなくなるのは、引退するときだと思っていた本誌もビックリの情報だった。「横綱は江戸時代の寛政元年(1789年)に、相撲の故実・礼式に精通している吉田司家の19世吉田追風が、大関・谷風らに横綱の免許を与えたことに始まります。しかし、当時の横綱は、地位ではなく、“強豪大関に与えられる称号”。しかも、それは恒久的な制度ではありませんでした。なぜなら、史上最強力士といわれる大関・雷電には横綱の称号が与えられていません。横綱を大関と分けて考えるようになるのは幕末の横綱・陣幕から。その後、大関の降格が規則で定められましたが、横綱はまだ当時、称号にすぎなかったので、何も触れられなかったんです」(同)

 横綱を地位と明文化したのは、国技館がオープンする明治42年のこと。ところが、横綱が称号だった時代の名残りで降格の基準が設けられなかったのだ。相撲界の「最高位」である横綱も、歴史を振り返ると微妙な存在だったことが分かる。と同時に、もともと神事だったといわれる相撲だけに、奇妙な風習が残る。『おすもうさん』(草思社刊)の著者であるノンフィクション作家の高橋秀実氏は次のように語る。

「相撲は謎だらけ。まわしは直につけなければなりませんし、基本的に洗ってもいけないものだと言うんです。取材のため、新弟子に交じって相撲教習所に体験入門した際、海パンの上にはこうと思ったら、もちろんダメ。渡されたまわしは使い古されているようで、締める際にはさすがに躊躇しました(笑)」

 そのまわしは、広げると幅約80センチ。長さはおよそ9メートルにも及ぶ。「もちろん、1人でつけられませんから、2人で“締めっこ”するわけです。しかも、僕のような一般的な体型の人がつけると、体が浮き上がる感じで、四股を踏むのさえ大変なこと。やっぱり、いわゆるお相撲さんの体型じゃないと、安定しないようにできているんですよ」(同)

 まわし一つ取ってみても、この調子。「相撲部屋で取材すると、より不思議な感じは強まります。お相撲さんは早朝6時に稽古を始め、昼にチャンコを食べ、その後、3時間昼寝をします。そして、おもむろに起きだして部屋の掃除などをすませ、夜7時頃にまたチャンコを食べて寝る。“チャンコと寝る”の繰り返しなんです。昼のチャンコは鍋中心ですが、夜のチャンコはカレーライスが多い。つまり、食事のことをチャンコと呼ぶわけです」(同)

 チャンコ鍋だけがチャンコではないのだ。一説によると、チャンコの由来は、ちゃん(父)と子。つまり親方と弟子で食事をするという意味だという。

「相撲の取組には東方と西方があり、国技館をはじめ、地方場所でも会場に東西南北の方角が印字してあるでしょう。ところが、国技館の東方は、実は北側にあって向きが違っているんです」(同)

 これまた不思議な話だ。その理由は、玄関のある方角が「正面」、その反対が「向正面」、正面から見て右が「西」、左が「東」と決まっているからだ。「東西の向きに合わせて会場を作ればいいんですが、正面は道路に面していなければなりません。正面を起点に方角を定めているため、建築上の理由で、そういう不思議が起こるんですよ」(同)

 正面の左が「東」と決まっているのは、平安時代の相撲節会(すまいのせちえ)で力士が左右の近衛府に分類され、それぞれ左相撲(左方)、右相撲(右方)と呼ばれていたことにちなんでいるという。右大臣より左大臣の地位が上であるように、現在の相撲でも「左(東)」が「右(西)」より上位とされる。

「相撲節会では、大関のことを最手(ほて)と呼び、次に位置する者を最手脇(ほてわき)と呼びました。やがて取組の相手を関所に見立て、ことごとく破ったとき、関を攻略したという意味で(十両以上の)力士を“関取”と呼ぶようになりました。そのうち、関の字に大の字をつけて、大関という最高位(江戸時代)を表す言葉が生まれたんです」(前出の長山氏)

「関脇」は「大関」の脇(次)という意味。また、その日最後の取組を“結びの一番”というが、大関が「大結」とするなら、その前を取る関脇は「中結」。そこから三役の「小結」の名称が生まれたという説もある。

■力士も知らない! 立ち合いの秘密

 立ち合いも、これまた相撲の世界独特の不思議なルールだ。「野球ならプレイボール、柔道なら始めという主審の声で試合が始まりますが、相撲では、行司という主審がいるにもかかわらず、対戦する2人が呼吸を合わせ、自主的に始めなければなりません」(前同)

 つまり、2人のタイミングが合うまで、極端な言い方をすると、何時間でも立ち合いを行うというのが、もともとの相撲のルールだったという。「相撲節会では、今のプロレスのようにグルグル回って睨み合っていました。江戸時代に土俵が生まれると、次第に手をつくようになりましたが、呼吸が合うまで何回仕切ってもよかったんです」(同)

 片方が突っかけようとしても、息が合わなければ「待った!」ができる。これまた、他の格闘技では考えられない相撲独特のルールだ。当時は仕切り線もなく、仕切りのたびに力士が前に出てきて、最後は頭と頭をつけ合うようになったという。そうなると、ますます立ち上がりにくくなり、「待った」を繰り返す。結果、どういうことになったのかというと、「明治天皇の天覧相撲の取組で、“待った”を計54回、立ち合うまでに1時間37分をかけた例があったといいます」(前出の盒胸瓠

 しかし、その立ち合いでは不都合が生じるようになった。昭和3年(1928年)に相撲のラジオ放送が始まると、放送時間内にすべての取組を終わらせる必要が出てきたからだ。そこで生まれたのが制限時間。NHKのアナウンサーが「いよいよ制限時間いっぱいとなりました……」という例のアレだ。長山氏が、こう続ける。

「ただし、4分という制限時間内なら、いつ立ってもいいことになっているんです。ところが、ファンのみならず、そういうルールがあることを知らない力士がいたことに驚かされたことがあります」

 横綱・白鵬が63連勝を成し遂げた平成22年(2010年)のこと。ある力士が支度部屋での囲み取材が終わると、長山氏に近づいて来て、こうささやいたという。「明日は横綱(白鵬)戦だけど、どう行ったらいいと思う?」

 そこで長山氏は「1回目の仕切りで突っかけたら(立ったら)どう?」と助言した。すると、その力士は、「えっ、仕切りって、制限時間内に立ってもいいの?」と驚きの表情を浮かべていたという。長山氏が続ける。

「その力士が1回目から立つ気なのを知っていましたから、支度部屋のテレビで注目して見ていましたよ。確かに、その力士は1回目から立つ気満々で、白鵬もそれが分かったんだと思います。ところが、残念なことに白鵬は受けなかった。でもね、どの仕切りも緊張感にあふれ、見ていて面白かった。立ち合いというのは本来、こうあるべきなんですよ。結局、制限時間いっぱいの立ち合いになりましたが、白鵬はやや動揺したようで、相撲がいつになくバタついていました。結果、白鵬は左からの上手投げで勝つんですが、負けた力士が支度部屋に戻り、いかにも残念そうに“惜しかった……”と、こぼしていました」

 それはそうだ。白鵬の連勝を止める大金星をあげたら、相撲ファンの記憶に残る力士となっただろう。

■実はテキトー! 決まり手の真実

 彼ら力士たちは、金星はもちろん、一つでも番付を上げようと日頃の稽古で精進するとともに、技を磨いている。そこで最後は、技についての意外な話をお伝えしよう。

 よく「四十八手」と呼ばれるが、これはただ数が多いことを意味する言葉で、実際に相撲の決まり手が48あるわけではない。それどころか、江戸時代には行司の口伝を含めると300にも達したという。「とはいえ、昭和前半までは“相撲の決まり手は四十八手”というのが建前でした。それなのに、勝負がついた後は、四十八手にとらわれない決まり手を場内で発表。見解の分かれる技が決まると、各新聞がそれぞれ勝手に決まり手を決め、各紙バラバラに掲載していたんです」(前同)

 それではいけないと、昭和30年(1955年)5月に決まり手を整理、統合し、68手と制定。その後、昭和35年(1960年)に70手に改定され、2001年に82手にさらに改定された。それだけ決まり手を制定すると、一度も使われない技が出てくる一方、逆に決まり手にない技も登場する。

「その場合、実際の技を決まり手に合わすようになりました。たとえば、“技のデパートモンゴル支店”と呼ばれた旭鷲山が平成9年(1997年)の名古屋場所で、浜ノ嶋相手に、右手首をつかんでプロレスのハンマー投げのように外側に捻って倒す技を繰り出したんです」(同)

 決まり手は「腕(かいな)捻り」と発表されたが、実際にはハンマー投げのように振るわけだから、まるで逆。“腕回し”と言ってもいい技だったという。「旭鷲山はモンゴル相撲でいう“ゴッタダ”という技だったと言い、新しい決まり手にしてほしいと支度部屋で訴えていました。82手以外の技が出た場合、協会制定の技になくても、新しい決まり手にするという柔軟性があってもいいと思いますよ」(同)

 奇抜な「居反り」を得意とする宇良(木瀬部屋)が幕内入りを果たし、技の面でも注目される大相撲。今の人気に満足することなく、相撲協会には、時代に対応した「国技」を目指してもらいたいところだ。