「尋問する言語」が世間を窮屈にしている

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斎藤哲也さんの連載「補助線としての哲学」。今回から3回連続で番外編「いま読むべき3冊の思想書」をお届けします。斎藤さんはこの3冊について「愚かさを増しつつあるこの世界に抵抗するための“希望の書”」といいます。その理由とは――。第1回は國分功一郎さんの新著『中動態の世界』を取り上げます。

■この春に刊行された必読の哲学・思想書とは

今回から3回に渡り、番外編ということで3冊の哲学・思想書の紹介をしたい。というのも、人文書の世界では、この3冊が今春にほぼ同時に発売されたことで、「祭り」といっていいぐらい盛り上がっているからだ。

その3冊とは、國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)、東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)、千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)である。

軽薄な言い方で申し訳ないが、この3人が哲学・思想分野のスター選手であることは、少しでもこの分野に興味を持っている人なら、多くの人が認めるところだろう。そんな3人の著作が、ほぼ同時発売というのだから、思想好きなら鼻血モノだ。書店の人文コーナー担当者も「売ったるで」と腕まくりをしている。

当然、ファンの一人として、僕も3冊をコンプリートした。はっきり言おう。この3冊は、愚かさを増しつつあるこの世界に抵抗するための“希望の書”だ。少なくとも、僕はそう読んだ。

では、それはどのような抵抗なのか。そんな問題意識から、3冊の本を紹介していきたい。

■「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」の世界へ

國分功一郎の『中動態の世界』は、能動態でも受動態でもない「中動態」という文法に着目する。なぜか。それは「能動/受動(する/される)」という区別でしか物事を考えられない私たちの、思考の凝りを解きほぐす必要があるからだ。

実際、日常のなかに、能動とも受動とも言えないふるまいを見つけることは難しくない。國分は「歩く」というごく基本的な行為ですら、能動という概念だけでは説明できないという。

歩く動作は、身体各部の複雑な連携がなければ実現しない。歩ける環境や条件も整備されていなければならない。しかも私たちは、自分の思いどおりに身体を動かして、歩いているわけではない。これを能動というのは無理がある。

<「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった>

にもかかわらず、私たちは、能動と受動の区別を疑わないし、その区別は「われわれの思考の奥深くで作用している」。責任を問う場面では、自分の意志でやったのか、やらされたのか、という二分法が前面に出る。つまり、能動と受動の区別は、意志や責任を求める思考と強く結びついている。

そこで著者は問いかける。いったい何が、能動と受動の区別を発生させているのか、と。その手がかりとして注目するのが「文法」だ。

<われわれは英文法などを通じて態について学ぶ。われわれが教わるのは、態には能動と受動の二つがあり、そしてその二つしかないということだ>

習いましたねぇ。英語の授業では「次の文を受動態にせよ」なんて問題をさんざん解かされた。“He painted these pictures.”を“These pictures were painted by him.”に転換したりとか。

しかし著者は、フランスの言語学者エミール・バンヴェニストの知見を紹介しながら、能動態と受動態の対立は普遍的でも必然的でもない、という。そもそも、多くの言語にこの区別はないし、区別のあるインド=ヨーロッパ語族でも、その区別は後世になって現れた新しい文法規則だからだ。

そして、決定的な事実が紹介される。「中動態」の存在だ。「もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった」と著者は解説する。

■「尋問する言語」が人々の自由を奪う

ここから、著者の「中動態の世界」への長い旅が始まる。その旅は、推理小説のように、謎解きに満ちた旅になっている。そもそも中動態とは何なのか。なぜそれが言語の表舞台から消えてしまったのか。中動態は、世界をどのように表現するのか。

その旅のなかで、読者は著者とともに、アリストテレス、ハンナ・アーレント、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ハイデッガー、ジル・ドゥルーズ、スピノザなど、さまざまな哲学者と出会うことになるだろう。実際、同書の後半は「中動態の観点から書き直される哲学史の序章に向けたノートのようなもの」として書かれている。

「中動態の世界」への旅は、スピノザの哲学、アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの遺作となった中編小説『ビリー・バッド』の読解でひとまず終わる。そこには、能動と受動の区別では見逃してしまう「自由」になるための道筋が感動的に示されている。

本書のなかで、著者は、能動態と受動態という対立を際立たせる現在の言語を「尋問する言語」と呼んでいる。

<その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する>

「尋問する言語」ばかりが交わされる世界は、とても窮屈で、人を萎縮させてしまう。この尋問する言語は、行為の責任を問う場面では「お前が自分の意志でやったのだろう?」と自由意志を呼び出さずにはいられない。しかし、それはまったく「自由」ではない。著者が言うように、「自由を追求することは自由意志を認めることではない」のだ。

この連載との関連でいえば、能動と受動の区別もまた、強烈なバイアスにほかならない。僕もまた、数え切れないくらい、尋問する言語で考え、話してきたのだろうと思う。

「尋問する言語」が幅を利かせる世界は、「尋問する世界」になってしまう。実際、いまの世界を見渡せば、いたるところで「尋問」に満ちている。

その不自由を認識し、自由になるための道筋が「中動態の世界」を知ることだと著者は言う。本書を、愚かさを増す世界に抵抗するための“希望の書”と考えるゆえんもそこにある。

次回は、東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』を取り上げよう。

(フリー編集者・ライター 斎藤 哲也)