グーグルマップでも二重表記となっているデリー/ロンドンデリー

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 EU離脱に揺れる英国。しかし揺れているのは何も英国だけではない。特に、陸地で国境を接するアイルランドへの影響は甚大だ。

 英国がEUを離れる2年後、様々な経済的、社会的、政治的変化が起こるだろう。そういったマクロな変化だけでなく、もっとミクロな観点から気になる場所がある。アイルランド島北部だ。今回の騒動によって唯一「陸地の国境線」が再設定されるのがここだからである。

◆二つの名を持つ都市の、数百年にわたる対立と紛争

 リバプールから直行便でちょうど1時間の距離にある英領北アイルランド第二の都市・デリーは、アイルランド共和国との国境に接する小さな地方都市だ。またの名を「ロンドンデリー」という。17世紀、ロンドン資本によって開発されたため、そもそもの名前である“デリー”の前に“ロンドン”がつけられた。歴史的に英国とアイルランドの狭間に揺れるこの地域では、街の名称すらいまだに議論のタネとなっている。

 筆者はまず英領北アイルランド首府ベルファストまで飛び、そこから列車でデリーに向かった。「デリー/ロンドンデリー」と二重に案内される行き先表示や音声アナウンス。グーグルマップでも二つの名が併記されている。問題の根深さが、こんなところからもうかがえる。

 この街は分断と対立、紛争の歴史を積み重ねてきた。カトリック系住民とプロテスタント系住民の争いが基本構図だと言われるが、先住者と征服・植民者、権力者と市民など、様々な要素の対立が絡み合い、その構図はそう単純ではない。

 特に中世以降、イングランドによる度重なる征服と植民が行われ、その度にアイルランド人の強固な抵抗を引き起こした。北アイルランドにおける20世紀後半の断続的な紛争は“The Troubles”(「トラブル」)と呼ばれ、EUによると3500人もの死者を出した。中でも英国軍がデモ隊に発砲して13人が即死した「血の日曜日事件」(1972年)はいまだに現地の人たちの心に大きなトゲを残したままだ。

◆デリーの歴史を象徴する「橋と扉」

 デリー旧市街の中心は城郭都市。7つ(当初は4つ)の扉に堅く守られ、幾度もの籠城戦に耐えてきた。内と外を冷徹に分けるその作りは、歴史的分断の象徴そのものだ。旧くはイングランドとの関係が深いプロテスタント系住民がこの中に居を構え、先住のカトリック系住民はその外で暮らしていた。現在ではこの城郭の中を含め、市内を流れるフォイル川西岸(シティサイド)はカトリック教徒で占められている。

 プロテスタント系住民は、フォイル川を挟んだ対岸(ウォーターサイド)に固まっている。ウォーターサイドでは、赤・白・青の英国旗色のペインティングも散見され、そのアイデンティティを誇示しているかのようだ。現地に住む20代のミュージシャン、オーエン・ドネガン氏は、両地域を分断するフォイル川沿いにかかる橋を指差して、「この橋はEUがお金を出して、5年くらい前(正確には2011年)に完成したんだ」と説明してくれた。

◆橋に見るデリーの分離と融和

 この街の様子は、ドイツ人哲学者ゲオルグ・ジンメルの「橋と扉」というエッセイを想起させる。その中でジンメルは橋を、分かち隔てられた河の両岸に「精神が手をさしのべ、分離しているものを融和させ、一つに結びつける」ものと述べている。

「ピース・ブリッジ」というその名が示すとおり、フォイル川に架けられた橋は、カトリック系住民とプロテスタント系住民の物理的、視覚的、精神的な分離を融和させるために差し伸べられた、両者を結びつける象徴だ。EUという国際機関がイニシアティブをとって莫大な費用をかけてそれが建設されたことに、問題の根深さと和解への取り組みの真摯さの両面が表れている。つまりその分断と融合は単なる一地方都市レベルの問題ではなく、国家レベル、国際レベルの問題でもあることを示しているのだ。