東京の女には、ホテルの数だけ物語がある。

「ホテル」という優雅な別世界での、非日常的な体験。それは、時に甘く、時にほろ苦く、女の人生を彩っていく。

そんな上質な大人の空間に魅了され続けた、ひとりの女性がいた。

彼女の名は、皐月(さつき)。

これは、東京の名だたるホテルを舞台に、1人の女の人生をリアルに描いたストーリー。

埼玉出身のごく普通の女子大生だった彼女の人生は、少しずつ東京色に染まっていく。社会人になり、年上の恋人と『パーク ハイアット 東京』ステイの夢を果たし、東京生活を謳歌する皐月。しかし、適齢期での結婚を考え始め...?




恋人を、両親に紹介する。

この一大イベントに、私は完全に舞い上がっていた。

27歳という結婚にぴったりな年齢、外資系コンサルティングファームに勤める毛並みのいい恋人、交際期間半年という絶頂期。

まるで、絵に描いたように整った環境だ。

きっと両親と恋人の直樹を対面させることで、私たちの関係は自然と結婚へと向いていくだろう。

20代は、東京の煌びやかな生活を思う存分に楽しんだ。

自由な独身生活が名残惜しい気もするし、27歳で家庭に入るのは少々若すぎるかもしれない。しかし、何事も「もう少し行けるかも」くらいの地点で打ち止めるのが、賢い選択ではないだろうか。

結婚後を想像してみる。白金あたりのマンションに新居を構え、落ち着いて余裕のある、幸せな妻となった自分。

素敵な男性との結婚こそが、本当の意味で東京に根を張るための最大の登竜門だ。

当時の私が、ひどく浅はかな妄想に陶酔していたのは、言うまでもない。


両親を連れ、意気揚々とホテルランチへ向かう皐月だが...?


生意気な娘、嬉しそうなママ、堅い表情のパパ


「彼は世田谷出身のきちんとした人だから、ママたちも綺麗な恰好で来てね!」

私の生意気な物言いに半ば呆れながらも、父はきちんとジャケットを羽織り、母はワンピースにパールのネックレスを飾って、地元埼玉から銀座までやって来てくれた。

「わざわざ、そんなにかしこまったお店でランチするの?高いところじゃなくていいのに...」

心配そうに母が聞く。小学生の頃は美人ママと評判で、いつも鼻高々だった母。

少し濃い化粧をして深いピンクの口紅を塗った彼女の顔は、50歳を過ぎた今でも可愛らしい。

昔は母にねだり、よく新宿や原宿に買い物に連れて行ってもらった。テストで良い点数を取ると、好きな服を買ってもらえたのだ。

「いいじゃない、たまには。休日のホテルランチなんて、そんなに敷居が高いわけじゃないわよ。今日は私たちの奢りだし」

そんな母たちを自分が先導し、銀座の街を歩いている。今となっては両親より私の方がずっと東京に詳しいことは、誇らしくも少し寂しいような、甘酸っぱい感じがした。




梅雨入り前の5月の東京は、都会とはいえ緑豊かだ。

日比谷公園の青々と茂る美しい新緑を眺めながら、私と両親は、帝国ホテルの『レ セゾン』に向かった。

老舗ホテルの重厚感のあるエントランスを、セルジオロッシのハイヒールで通り抜ける。

私はここ数年の東京生活で、こういった場所に足を踏み入れる緊張感は、ほとんどなくなった。むしろこの洗練された空間に入るほど、小気味よく気が引き締まり、背筋がすっと伸びるくらいだ。

しかし後ろの両親を振り返ると、彼らはドアマンたちに申し訳なさそうにお辞儀をし、借りてきた猫のようにちょこちょこと歩いている。

―まったくもう......。

そんな両親と歩幅を合わせながら、店に到着した。

「たぶん、彼はもう中で待ってるわ。同い年なのに、しっかりした人なの。外資系の会社に勤めてて、頭もすごく良いんだけど、謙虚で優しいのよ」

私が前もって直樹の情報を伝えると、「あら、素敵ねぇ」と母は嬉しそうに微笑み、父はまるで何も聞こえていないかように堅い表情をしていた。

しかし、ウェイターに案内された席に、直樹の姿はない。

―早めに来てって言ったのに......!

少々胸をザワつかせながらも、私は両親とともに上品にコーディネートされたテーブルをお行儀よく囲み、直樹の到着を待った。


なかなか現れない恋人。彼の衝撃の一言とは...?


「まだ、君の親に会える自信がない」


「オーダーは、お連れ様がいらしてからになさいますか?」

「あ......はい、もう少しで到着すると思うので......」

「かしこまりました」

品のよい微笑みを浮かべたウェイターが、静かにテーブルを去っていく。

待合せの時間は15分も過ぎていたが、直樹はいっこうに現れない。だんだんと、嫌な予感が胸に広がる。

「彼に電話してくる。ちょっと待ってて...」

店の外にでてLINEをひらく。「着いたよ」という私のメッセージに、まだ既読はついていない。私は不快な胸騒ぎを抑えながら、直樹に電話をかけた。

「......あ、もしもし?」

「ちょっと、今どこにいるの?!」

「......ごめん皐月。俺、今日行けない」

直樹は気まずそうに、私が一番聞きたくなかった言葉を口にした。一瞬、頭が真っ白になる。スマホを持つ手が、小さく震えた。

「本当にごめん。でも、まだ皐月の親に会える自信がなくて...」

「どういう意味?約束したでしょ...!」

「だって俺たち、付き合ってまだ半年だろ?まだ、そういうの重くてさ......。もう少し、今の関係を楽しみたいっていうか......」

約束を破ろうとしているにも関わらず、直樹は甘えるような声で言い訳をする。

「何よそれ......。パパとママだって、直樹に会えるの楽しみにしてるのよ。ねぇ、今からタクシーで急いで来て」

「いや...フレンチなんてちょっと本格的だし、やめておくよ。親子水入らず、楽しんでよ」

直樹は「本当にごめん」と、しきりに謝りながらも電話を切ってしまった。

―重いって、何......?

心臓が、ドクドクと大きく音を立てる。私はひどく動揺しながらも、平静を装ってテーブルに戻った。




「ごめん......彼、急な仕事で、どうしても来れなくなっちゃったって。パパとママには、また改めて挨拶したいって言ってた。本当にごめんなさいって......」

なるべく軽く言ったつもりだったが、父は明らかに顔を歪ませ、母はすべてを悟ったような表情で、労わるようにじっと私の顔を覗き込む。

「お前、その男は......」

父が何か言いかけると、母が急に不自然なほど笑顔を作り、明るい声で言った。

「パパ、よかったわね!これで皐月とゆっくり話せるじゃない。皐月、パパね、久しぶりに会うのに男連れなのかって、すごーく不機嫌だったんだから」

母の言葉に、思わず目が潤む。直樹にすっぽかされた痛みよりも、それをフォローしようとする母の思いやりの方が、ずっと私の涙腺を刺激した。

数分前まで都会ぶって偉そうに振る舞っていた私は、ここですっかりただの子どもに戻ってしまった。

代わりに両親は、心底楽しそうに高級フレンチを楽しんでいる。特にいつもより饒舌になった母を見ていると、胸がじんわりと温かくなった。

最後の会計も、私が払おうとしたにも関わらず、父がさっとカードを出して済ませてしまった。

「パパ、ごちそうさま」

私が言うと、父は「うむ」と小さく唸り、恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「たまには、ゆっくりうちに帰って来てね」

駅まで両親を見送ったとき、何度もこちらを振り返る二人がホームに消えて行くのを見ると、今まで感じたことのない、しんみりとした寂しさを感じた。

次の休みには、実家に帰ろう。次に東京に来てもらったときは、自分のためでなく、ちゃんとパパとママのために食事をご馳走しよう。

家族という絆の有難みが、やけに胸に染みた。

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