新連載コラム『フミ斎藤のプロレス読本』プロローグ05は「プロレス・マスコミは日本にしかない仕事」というおはなし。ブルーザー・ブロディは日本のプロレス・マスコミを巧みに利用したスーパースターだった(Photo Credit:Fumi Saito)

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 199X年

 プロレスの世界では、ありとあらゆる情報があっというまに広まる。ニューヨークで起きたことが一瞬にしてアトランタに伝わり、そのまた次の瞬間にはそれが東京まで飛んでくる。ケータイもインターネットもなかった時代からずっとずっとそうだった。

 ブルーザー・ブロディがプエルトリコで非業の死をとげたときは、その死に対する驚きと同じくらい、プロレスラーとプロレスラーの情報ネットワークの速さに驚かされた。

 ぼくはあの日(1988年7月17日)、たまたまテキサス州ダラスにいたが、プロレスとまったく関係のない要件で電話をかけた知人からその知らせを聞いた。

 半信半疑だったぼくは、それから3、4人のアメリカ人の友人たちに電話をしてみたら、奇妙なことにいずれの番号も“話し中”だった。しばらくしてからもういちどトライすると、受話器の向こうから聞こえてきた第一声は異口同音に「ブロディのこと? ほんとうらしいよ」だった。

 翌日、こんどは試合の取材でダラスからテネシー州メンフィスに向かうと、ミッドサウス・コロシアムのバックステージに着いたとたん、ジェリー・ローラーが「聞いただろ、ひでえはなしだなTerrible, huh」と立ち話をしている場面に出くわした。

 その夜、ホテルから週刊プロレス編集部に電話を入れると、もうその件に関してはぼくよりも編集部のみんなのほうがはるかに詳しくなっていた。

 ぼくは、口コミの威力にすっかり驚愕してしまった。あれ以来、プロレスラーの口から口へと伝達されるニュースこそいちばん新しい情報なのだと本気で考えるようになった。

 リック・フレアーがWCWを脱退したときも、ハルク・ホーガンが“ステロイド疑惑”でアメリカのマスメディアの標的にされたときも、ボーイズは日本とアメリカでほとんど同時進行で最新情報を交換し合っていた。

 もともと、レスリング・ビジネスはアメリカでも日本でも、メキシコでもヨーロッパでも、ごくちいさなゲマインシャフトGemeinschaft(共同社会)だった。なんでもかんでも口コミで伝わるのは仲間意識が強いからだ。

 これはほんとうの意味でマスメディアが存在しない社会、ジャーナリズムが介入しないコニュニティーでのみ成立しうるコミュニケーション・システムだった。アメリカのプロレス関係者は、同業者ではない人たちとインフォメーションを共有することを極端に嫌った。

 このあたりが日本とアメリカのレスリング・ビジネスのいちばん大きなちがいということになるのだろう。“プロレス・マスコミ”というサブ・ジャンル的なネーミングがつけられているとしても、日本では古くから――力道山時代の昭和30年代から――ジャーナリズムがプロレスと深いかかわりを持ち、情報はつねにパブリックな空間に解き放たれてきた。

 おそらく、日本のプロレス・マスコミの特殊性に関心を示した最初のアメリカ人レスラーはスタン・ハンセンだった。ハンセンは、自分のことが書かれている専門誌やスポーツ新聞の記事を親しい日本人の友人、知人――ハンセン自身が日本人女性と結婚していることを公表したのは1987年ごろだった――に翻訳してもらっていた。

 ハンセンが四半世紀にわたり日本でスーパースターのステータスを築いた要因のひとつは、メディアの存在を含めた日本のレスリング・ビジネスの構造を察知していたことだ。

 ブロディもまた、ハンセンとはちがった形で日本のプロレス・マスコミを利用しつづけた。

 ハンセンとブロディはやっぱりどこまでも特別な存在だった。日本にやって来る外国人レスラーたちのほとんどは、プロレス・マスコミの記者――たとえば、ぼくとか――がじっさいにどんな仕事をしているかをあまりよく知らない。