雄大なる自然の大地、桜島。その風土と島民の心意気が、遠藤保仁の才能を育んだ。写真提供:遠藤武義

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【週刊サッカーダイジェスト 2007年5月19日号にて掲載。以下、加筆・修正】

 こよなくサッカーを愛した一家の物語。
 
 桜島の象徴である御岳(おんたけ)に見下ろされた家屋の脇に、ボロボロになったサッカーボールがひとつ、転がっている。かつて遠藤三兄弟が、庭で技を競い合っていた頃のものだ。
 
 壮観なる大地に育まれ、人びとの愛情に満たされた日々。やがて末弟の保仁は、日本を代表するプレーメーカーへと成長を遂げた。

【遠藤保仁PHOTO】骨太のキャリアを厳選フォトで振り返る 
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 鹿児島空港からレンタカーを走らせ、1時間もすると、御岳はいやがおうにも視界に飛び込んでくる。
 
 市の中心部にほど近い乗り場からフェリーで15分、穏やかな波の上を疾走するクルージングは爽快の一語に尽きるが、じわりじわりと近づいてくる御岳のド迫力を前に、ただただ、呆然とする。
 
 ほんの十数年前まで火山灰が猛威を振るっていた桜島のシンボル。沈静化している現在はその名残を残すのみで、悠然と、静かなたたずまいを見せている。
 
 溶岩グラウンドと名付けられた広域運動場は、その麓に位置する。大正時代の大噴火で溶岩が流れ込んでできたエリアを、町の財政で整備し、巨大なグラウンド3面にクラブハウス、体育館まで完備する総合施設へと変貌させた。
 
 そこはスポーツを推奨する町民の思いが結集された場所であり、サッカーボールを追う鹿児島県内の小中学生にとっては、聖地と形容してもおかしくない。照明代を除けば使用はほぼ無料で、今でも週末になると、7・8面はあるピッチの上で、チビっ子たちがお互いの技を競い合う。
 若干の火山灰を含んだ黒い土を眺めながら、遠藤武義は「土の下が溶岩ですから、どんな大雨になってもすっと水が引くんですよ」と話し、笑みを浮かべる。
 
 故郷の種子島を離れ、旧桜島町役場に赴任してきたのは、もう38年も前のこと(現在は桜島支所長)。自身は高校まで野球ひと筋で過ごし、いつか子宝に恵まれたなら、バットとグローブを授けようと考えていた。ところが……。
 
「誰も野球なんてしてないんですよ。すでにサッカーが根付いている土地でしたね。周りの子どもたちはみんなサッカーボールを蹴っていて、自然と長男の拓哉ものめりこんでいきました。小学校ではサッカーと少林寺拳法、それから女子のバレーボールしか活動してませんでした」
 
 九州でも有数のサッカーどころ、である。旧桜島町(2004年11月に鹿児島市に編入合併された)には桜州、桜峰とふたつの小学校があり、それぞれにサッカー少年団を形成していた。
 
 遠藤家のある位置は、ギリギリで前者の学区内。昭和45年の創部は鹿児島県内最古参のひとつで、昔から桜峰との「ダービーマッチ」は町全体を熱狂させるほどの盛況ぶりだったという。誰もがこぞってサッカーに興ずるそんな場所で、もはや生ける伝説ともなっているのが、遠藤三兄弟である。
 
 長男・拓哉のふたつ下が、元ヴィッセル神戸の彰弘。さらに4歳離れた三男が保仁なのだが、父の武義は“ヤット”が生を受けた日のことを今でもよく覚えているという。
 
「次こそは女の子で、ってそれは思ってましたよ(笑)。僕はその日、市内で一杯やりながら時間をつぶしていたんです。いよいよ生まれそうだって時に戻って看護婦さんに訊いたら、『元気な女の子です』ってことだったんで、安心してまたフェリーで市内に出かけたんです。そしたら間違いだったって。見事に騙されました(笑)。まあそれは冗談ですが、本当に元気な赤ちゃんでしたよ」

 陽気で社交的な拓哉と、クールで努力家の彰弘。ふたりの兄はすでにサッカーに熱中していて、家の中にも外にもボールが転がっていた。
 
 保仁も、物心がついた時にはすでにボールを蹴っていたようで、母のヤス子いわく、「おなかの中にいる時から蹴る力が一番でしたけど、保育園にいた3歳の時も、それはもう凄いキック力でした」。
 
 桜州少年団は小3まで入団することができない。そこで武義は業者に頼んで自宅の庭をつぶして整地し、3人のためにちょっとしたグラウンドを作ってあげたのだという。三兄弟と、近所の幼なじみ3人を交えた6人が、いつものメンバー。学校に行く前に集まり、帰っても暗くなるまでボールを蹴り続けていた。
 
 そんななか、歳の離れた保仁の面倒を常に見ていたのが、拓哉だった。保仁自身は以前、こんな風に話してくれたことがある。
 
「俺のプレー原点は兄貴たち。で、どちらかっていうとやっぱり長男の影響が大きい。いっつも背中を追ってたし、なにをやってもかなわない圧倒的なテクニックがあったから。もちろん世界の有名な選手のプレーもいっぱい観たけど、身近に凄いファンタジスタがおったからね(笑)。兄貴たちが全国大会に行くたびに俺も両親と一緒に応援に行ってたし、自分もいつかはって思いは、小さい頃から自然と芽生えてたのかもしれない」
 
 拓哉は桜島中、鹿児島実高と進み、高3時には名門の背番号10をつけて高校選手権の舞台を駆け抜けた。同学年には前園真聖、藤山竜仁(桜峰少年団出身)がおり、いずれも高1から主力として活躍していた。
 
 拓哉は、川添孝一以来、久々に桜島が生んだスタープレーヤーであり、後輩たちの目標ともなった、まさに開拓者だと言える。「あと数年早くJリーグが始まってたら、絶対にプロになれてたと思う。俺にとっては今でも憧れの選手だから」と、保仁は力を込めてそう話す。

取材・文:川原崇(サッカーダイジェスト)