前回、AIやIoTに関連して介護の話題を記したところ、ビジネス関連以上にケアに関してリアクションをいただきました。

 そこで、高齢者の介護、ないし高齢化社会の産業について、いくつか記してみたいと思います。

 大所高所からものを言うというより、まずは一個人として体験した介護の現実に即して、やや古い事例になってしまいますが、ケースを記してみたいと思います。

 念のため広島国際大学総合リハビリテーション学部の石原茂和先生など専門家にお尋ねしてみたのですが、以下に記す2002〜2003年の状況、基本的には2017年でも大きく変わってはおらず、高齢者比率の上昇でむしろ悪化している側面もある可能性も懸念されるようでした。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

1つのケース・スタディ

 私が親の「介護」をしていたのは、大きく見れば2000年頃からですが、初めマダラボケが始まって手に負えず、困っていた時期が正直一番往生しました。

 当時まだ介護保険やその利用の仕方が分からず、親ですからこちらは相手が正気と思います。理非に合わないことを言われれば、家族ですから口論にもなり、腹も立ちます。

 そうしたもろもろを専門家に相談して、介護保険を適用してもらってから亡くなるまでの2002年10月から2004年2月まで、正味16カ月ほどが「介護」だったかと問われると、いや、その前の方がよほど大変だった、という気もします。

 この介護保険適用の短い期間にも、2002年12月には肺炎で死にかけて1カ月入院、退院してしばらくすると、今度は2月に脳梗塞で3週間入院、どちらも、家族である私が医師の同僚と携帯電話で相談しながら逐一判断、ケアしました。

 肺炎は何とか乗り切り、右半身が利かなくなりかかった脳梗塞も、即日のベッドサイドリハビリに機器を持ち込んで私自身も当たることで、3週間ほどで8割方回復させてやることができました。

 しかし、最後は、1人で何とか間に合っていた自宅で、突然死の形で終わりました。

 この16カ月は長いようで短いようで、正直よく分かりません。大変だったという意味ではきっと大変だったのだと思いますが、本人は必死なのであまり「大変感」は残っておらず、むしろ介護保険を適用する以前の心労の方がストレスだった印象が、私の場合は残っています。

 いまお話しているのは私の母のケースです。1926年生まれ、2004年に77歳で亡くなりました。

 1980年代に境界型の糖尿病と診断され、不養生な患者でしたので目や耳を糖尿の延長でつぎつぎと壊し、目は白内障の眼内レンズを1991年に入れ(私がいただいた出光音楽賞の賞金で入れさせてもらいました、授賞意図とは違ったのでしょうが・・・)、耳は極めて遠くなり、補聴器を何度も作り直していました。

 さて、この16カ月の介護期間、2回の入院があり、その都度、容態が変わって痛感したのは、「状況が変わると全部買い直さねばならない」介護関連の(少なくとも当時の)実態でした。

ベビー用品と似ている介護周り

 例えば2002年の暮れに母が肺炎で入院したとき、思い切って、と1カ月ほどの入院の間に家を改装し、ケアしやすい(はず)の環境を整えました。

 それなりに出費があったように思います。

 さて、新生活でお正月、松の内が明ける頃に改装が終わって退院させたのですが、2月の初めに状態がおかしくなった。

 手に持っている紅茶のカップを落として割ってしまったのです。痺れるという。寝違いか、神経痛か、あるいは中枢性の何かかと案じつつも、私は大学で修士審査など仕事がありましたので丸1日そのまま待たせました。

 翌々日の朝に病院に連れて行ったところ、夕方4時頃までかかった検査の終わる午後4時頃になって血栓が飛びまくり、あれよという間に右半身が麻痺してしまいました。

 即刻緊急入院できたのはラッキーだったと思います。ともかく直後から徹底してリハビリ、これには通電など含む、よく言えば先端的、悪く言えば大学の実験室と同様のリハビリ実験を家族ですので私自身が集中して行いました。

 3週間ほどで9割回復も幸運ではありましたが、この間に痛感したのが、介護用品の寿命の短さです。ほとんどベビー用品と変わらない実態でした。

 例えば「リハビリ箸」というような製品があります。軽度用から重度用までいろいろあり、一つひとつが1400円とか結構な値段がします。

 しかも、症状が変わるたびに、リハビリですから軽快するわけですが、前の物が使いにくくなる。と言うか使い勝手が元来良い物ではありませんから、どんどんお古になっていく。

 ずいぶん出費させられた記憶があり、赤ん坊と似たものを感じました。子供の場合は親としては成長が嬉しいですから親バカでお金を使いますが、年寄りの「二度ワラシ」は成長するわけではありません。

 リハビリテーションは少し成長と似たものがあり、何か「育てるんだ」というような気概をもって、親の機能回復に一生懸命取り組んだのを思い出します。

 2002年当時と比べると現在は介護用品のレンタルが充実したと専門家から伺いました。しかし、15年前はレンタルもほとんど選択肢がなかったし、また人様と共用するような性質でないものも、介護周りは決して少なくありません。

 そもそも、基本的に加齢というのは老化であり、人間というのは瞬間で死ぬのではなく、部分部分ごとに死んでいく。あるいは使い物にならなくなっていくのだな。生死は1:0ではなく、途中の緩やかな段階があるのだな。などと哲学的なことを考えたりもしました。

 さて、脳梗塞から帰って来ると、肺炎の間に改修した家の使い勝手が悪いわけです。

 利き手で掴めるようにとしつらえた手すりでしたが、右半身が脳梗塞麻痺ですから、文字を書いたり編み物をしたり、箸を持てるようになど、かなり回復したとはいえ、掴まり立ちその他あらゆる日常の所作を、より安全な形になるよう、もう一度手を入れ直しました。また少しお金がかかりました。

 我が家の場合、ここで症状が安定し、その後突然自宅で亡くなるまでの1年間は、入院もせずスパゲッティ状態にもならず、突然死という形で最期を迎えましたが、自分らしく生きる12カ月ほどを送らせてやることはできたように思っています。

 思い返せばいろいろありますが、考えても仕方ないので、考えないようにしているわけですが・・・。

 ここで、この「症状の安定」は、放っておいたら安定する、ではなく、安定維持するようにかなりの努力を本人も、また家族も払い続けなければならないというのが、ポイントであるように思うのです。

 多くの介護用品は、極めて「静的」に作られている、という強い印象が残っています。つまり「動的」ではない。これで「ベビー」を想起したわけです。

 何カ月齢向け、と言えばその期間限定。ベビーベッドなどは2人目が生まれればまた使えるかもしれませんが、介護ベッドは2人目など並ぶとえらいことですし。3人目以降にお古で使い回せるというものでもない。

 一方で「進行する高齢化社会とケアビジネス」といったトピックスに大学ではコミットもするのですが、ここで言う「ビジネス」で営利が勝ってしまうと、ただ単に年寄り顧客(やその家族)を食い物にすることにしかならない。鼻持ちならないことになると言わざるを得ません。

 だからと言って、欧州の電化製品みたいに、大事に使うと20年でも30年でも持つ製品ばかりでも、メーカなどは採算が取りにくい。

 近江商人の「三方よし」ではありませんが、事業者もケアされる高齢者も、ケアをする家族・若年層にもプラスの好循環があるイノベーション、もっと言えば「ソーシャル・イノベーション」社会的な体制を含む変化が必要だと思うのです。

 そこで検討すべき1つに、現行の「シーズ」「ニーズ」の逆転があるのではないかと思うのです。

テクノロジーの驕り〜シーズ主導ケアの限界

 STAP細胞詐欺の折に痛感した1つは、従来は変わり者たちが密やかに続けていた基礎研究開発が、政治屋から詐欺師まで暗黒紳士淑女の跋扈する草刈場になってしまった変化でありました。

 少子高齢化が進んでいる。これは間違いないでしょう。高齢化社会対策のイノベーションが重要だ。これも確かにそう思います。

 実際に老人科などの医療現場、ホスピスや各種介護施設の切実なニーズも日々新たと思います。

 しかし、こと「先端技術」(「」つきの表現であることにご注意ください)、例えばIoTに関連して「センサー技術はこんなことにも使える、例えば介護にも・・・」といった具合に、技術シーズが先にあって、その適用対象として「介護」が着目されるようなケースでは、本当の意味で現場ニーズに即していない物を、特に研究開発プランなどでは頻見するように思います。

 技術すなわちシーズが優先して、その「ポテンシャルマーケット」として高齢化社会の草刈場を念頭に置くようなとき、IoTは典型的ですが、絵に描いた餅になりかねない。

 「技術の驕り」のように思います。

 例えばコンピューター・ビジョンという技術があります。デジタル・カメラで画像を認識し、それに基づいて自動化したシステムを開発する・・・。そこそこの応用問題として、工学的な開発は比較的楽にできるかもしれません。

 こんな事例がありました。

 大阪で、駅のコンコースを歩く人の流れを、多数のデジタルカメラを使い、一人ひとりの歩行者を特定しながら、誰がどちらに行くか、移動の情報をコンピューター・ビジョン処理で確定し、災害時の避難路確保など、安全安心に有為な基礎研究を行いましょう・・・。

 審議会受けしそうなテーマで、多額の官費、つまり税金が投入されました。公のお金で実施する事業ですから適宜情報が公開されます。

 しかし、このケースでは、駅を利用する一般旅客の顔を特定し、その個人がどこに行くかを追尾するという技術が、現実の駅で「実証実験」的に適用されていたわけで、意識の高い人が見つけて大問題となり、ネットで炎上、当然のごとく実験は停止させられました。

 こうした話題はエルシー(ELSI=Ethical-Legal-& Social Issues)と呼ばれ、このコラムを長くお読みの方は大学の用務として欧州で私がコミットしているのをご存知かと思います。

 このELSIに基礎科学が全くないんですね。日本には。もっと言えば、少数の「権威」志願者が独占して、恣意的に予算を差配しようとしているきらいすらある。とんでもない状態と思います。

 大阪で使い物にならなくなった「実証実験」も、少なからざる税金が投入されたものでした。「根拠を欠く権威の思いつき」で失敗し、誰も責任を取ることなく多額の官費が無駄になったわけです。

 これと同様のリスクを、とりわけ高齢者ケア関連のR&D(研究開発)にも指摘しなければならないかもしれません。

 長く実のあるケア産業の社会的定着が、今後進行する一方の日本の少子高齢化状況が求め続けているのは、火を見るより明らかな現実なのですから。

(つづく)

筆者:伊東 乾