@AUTOCAR

写真拡大 (全7枚)

6気筒だからといって、ディーノ196Sは「ジュニア・フェラーリ」などではない。1,000万ドルの値が付くこのクルマに試乗し、50年余り前にロドリゲス兄弟が残した戦績を辿りながら、ミック・ウォルシュがその真価を明らかにしていく。

いまや10億円を超えるマシンのステアリングを握る

「注意して下さいね」と、助手席から声をかけてきたのはロンドンの北西郊外を拠点とするフェラーリ専門店、DKエンジニアリングのジェレミー・コッティンガムだ。「今日の午後、これを買うかもしれないお客さんが来るんですよ」 今や1,000万ドル(約10億円)の値札が付くクルマのステアリングを握っているときに、あまり聞きたくない言葉である。

ファントゥッチ製作のボディはテスタロッサのデザインを踏襲するが、6本の吸気トランペットがディーノであることを物語る。

 

3台だけが生産されたディーノ196S

1959年型のディーノ。ポルシェRSKに対抗すべく、フェラーリはこの年、V6を積む右ハンドルのスポーツ・レーサーを3台だけ生産した。そのなかでこのシャシーNo:0776は、ディーノ196Sとして作られたクルマだ。250テスタロッサ譲りのボディにSOHCの2ℓ60度V6エンジンを搭載。気筒数はテスタロッサの半分だが、7800rpmで約198psを発揮し、兄貴分を脅かすこともしばしばだった。排気量によっては246とも呼ばれるが、マセラティの「バードケージ」やアストン マーティンDBR、あるいは1950〜60年代にレースで活躍した英国のリスターと同様に、往時のレーシング・スポーツの在りようを今に伝える希少な1台である。

1960年のタルガ・フローリオがこのフロント・エンジンのディーノにとってベスト・レースだった。シャシーNo:0784が2位、No:0778が4位を獲得。No:0776を駆るリカルドとペドロのロドリゲス兄弟は、何度もコース・オフし、ついには横転まで喫しながらも7位でフィニッシュしたのである。今回の試乗場所はミルブルック・テスト・コース。起伏に富んだツイスティなレイアウトは、シシリー島の公道レースを偲ばせるものだ。観客を守る石垣も、その外側に駐車するフィアット・トポリーノもないけれど……。

起伏のある試乗コースで、ディーノ196Sは素晴らしいハンドリングを披露した。

 

コクピットに乗り込む

ドア内側のケーブルを引いてロックを解除し、小さなドアを開ける。長さの短いV6はシャシーの後ろ寄りにマウントされており、それゆえセンター・トンネルが高い。これとスペースフレームに挟まれたバケット・シートに腰を降ろすと、そこは心地よくフィットするコクピット空間だ。ボディ・スタイルは同時期のテスタロッサによく似ているが、観察眼の鋭い人ならボンネットが少し短いこと、そしてその上のアクリル製バルジのなかにウェーバーの吸気パイプが6本並んでいることに気付くだろう。スタイリングを手掛けたのはピニンファリーナだが、ボディ製作はスクーデリア・フェラーリご用達のメダルド・ファントゥッチが担当した。

ナルディのステアリングの向こうには、イェーガー製メーターが6つ、金属剥き出しのパネルにレイアウトされている。速度計はなく、8500rpmからレッド・ゾーンのタコメーターが中央に陣取る。左を見れば、トンネルの丸い凹みから延びた短いシフト・レバーが位置する。根元には5速のゲートが切られ、頂点には金属製の球形ノブを備えている。1速はいちばん左の手前だ。V6は頑丈なエンジンだが、ギアボックスとドライブラインをオフセットしたのは設計上の弱点だろう。

すべてがスーパー・レスポンシブ

重たいレーシング・クラッチゆえに発進にはコツが必要だが、走り始めてしまえばディーノのシャシーは活き活きと反応してくれる。サスペンションはフロントが独立、リアはリジッドのライブ・アクスル。コッティンガムによれば現代の一般的なサーキットに合わせて硬いセッティングにしているとのことで、ここミルブルックでは「注意が必要」だという。実際、バンプを越えるときリアがブレイクしがちだ。しかし、すべてがスーパー・レスポンシブ。ブレーキング中にノーズ・ダイブを感じることはなく、ダンロップ製のディスク・ブレーキは強力なストッピング・パワーを発揮してくれる。ドラムだった初期のテスタロッサの経験を経て、フェラーリはこのクルマにディスクを採用した。ステアリングはシャープで、その重さも理想的だ。5段M/Tはクロスレシオで、車重はわずか680kg。ディーノがドライバーを触発し始める。

居心地のよいコクピット。

ハードに攻めても、シャシーは驚くほど落ち着いたマナーを披露する。実績あるエース・ドライバー、ジャン・マルク・グーノンやサム・ハンコックがグッドウッドでこのクルマのキャラクターを絶賛したのも納得だ。「ディスク・ブレーキのおかげで、コーナーの深くまで侵入できる」とコッティンガム。「しかも、とても俊敏だ。サーキットではバランスの良さを探求できるだろう。ただし、このクルマのポテンシャルをフルに味わうには、限界まで攻める必要があるけどね」

ミルブルックはタイト・ターンが多いし、坂の頂上がブラインド・コーナーだったりするところもあって、なかなか思うように攻められない。オープンな高速コーナーでディーノのニュートラルなステア特性を試したいのだが、「シャシーのバランスは最高だけど、真剣に飛ばすとハンドリングは綱渡りになるよ」というコッティンガムの言葉を受けて、フラストレーションを飲み込むしかなかった。

アグレッシブな本領

ミルブルックで数ラップを重ねるうちに、高回転型のV6もそのアグレッシブな本領を発揮し始めた。大事なのは4000rpm以上を保つことだ。積極的にギア・チェンジすれば難しくはない。エキゾースト・ノートはV12の官能的な雄叫びに比べると荒々しい低音だが、それは試乗を終えてなお耳に残るものだった。

頑丈なV6は僅かにオフセットして搭載されている。

 

シャシーNo:0776

フェラーリが初めてV6にトライしたのは1958年のことだった。しかしこのツインカム2ℓ(2.9ℓ版もあった)はシングル・シーター用に設計したもの。翌59年、信頼性を高めたSOHCの2ℓをスポーツカー・レースに投入し、ジュリオ・カビアンカのドライブでモンツァのデビュー戦を制したことを受けて、同年後半に3台が生産された。

ここに紹介しているシャシーNo:0776は、59年の11月27日から12月7日にかけて行われたバハマ・スピード・ウィークでデビューした。ドライバーはリカルド・ロドリゲス。ニューヨークからバハマの首都ナッソーに向けて船積みしたのは、アメリカでのフェラーリのレース活動を担っていたノース・アメリカン・レーシング・チーム(NART)だった。リカルドの父親が17歳の息子の出走費用をすべて負担する、とNARTのボスのルイジ・キネッティに約束したからだ。最初に出走した2ℓクラスの5周レースで、ロドリゲスは4位を獲得した。

次のレースでロドリゲスはRSKを駆るボブ・ホルバートと激闘を繰り広げ、地元のファンを湧かせた。2周目でロドリゲスがトップを奪って以後はホルバートと抜きつ抜かれつ。最終ラップで周回遅れのアバルトやパナールなど遅いクルマを処理する間に、経験豊かなホルバートに逃げ切られてしまった。メイン・レースのナッソー・トロフィーは2ℓクラスと大きなマシンの混走で、ここにもエントリーしていたロドリゲスだが、メカニックがギアボックスを破損。スペアパーツがなく、残念ながら出走を断念する以外になかった。

3ヶ月後の60年3月、0776は2台の3ℓV12テスタロッサと共にフロリダのセブリング12時間レースに参戦。フラットだが荒れた路面のコースで、ロドリゲス兄弟はトップを走るスターリング・モスのマセラティ・バードケージやピート・ラブリーのテスタロッサを追い回したが、夕暮れを前にクラッチ・トラブルでリタイアした。

ヨーロッパに戻ってタルガ・フローリオに参戦

5月までに0776はヨーロッパに戻り、タルガ・フローリオに向けて準備する。高速サーキットではやや分が悪いディーノだが、シシリーの山岳コースには最適と思われ、フェラーリは3台すべてのディーノをそこに送り込んだ。シャシーNo:0784はヒルとフォン・トリプスがコンビを組み、0778はスカルフィオッティ、メレス、カビアンカの3人。一方、0776をエントリーしたNARTはロドリゲス兄弟に固執した。ディーノのドライバーのなかでリカルドが最速だったからだ。ただし、序盤からのコース・アウトでメカニックたちは大忙しになるのだが……。

朝の雨と風で路肩の土が流れ出し、コース状況は予断を許さないものになっていた。ロドリゲス兄弟はトップ・グループを僅差で追走したが、4周目にノーズを損傷。遅れを取り戻そうとしていたとき、今度はリカルドが路肩を越えて坂を転がり落ち、フェンダーとウインド・シールドを壊してしまった。しかし奇跡的に観客にコースまで押し上げてもらってレースに復帰できた。完走したなかで最もみすぼらしい姿になってはいたものの、0776は総合7位、クラス2位を獲得。ウィナーはジョー・ボニエのポルシェRS60だった。ポルシェは2年連続の栄冠だが、3ℓを積む2台のディーノが2位と4位に入ったおかげで、フェラーリはなんとか面目を保つことができた。

シフトゲートの1速とリバースには、誤操作防止の金属製クリップを備える。

 

マシンを買い取り修理、そしてニュル1000kmに参戦

タルガの後、ボロボロになった0776をロドリゲス兄弟の父親が1万ドルで買い取り、さらに修復費用として6000ドルを払う契約を結ぶ。おそらくはこの金額がNARTを勇気づけたのだろう。修復作業を急がせ、5月22日のニュルブルクリンク1000kmレースに間に合わせた。深い霧に包まれるなか、リカルドが67台中の7位でレース序盤を進めたが、31周目にエンジン・トラブルでリタイア。優勝はモスとガーニーのバードケージだった。

60年のル・マンでテスタロッサを駆るリカルド。

 

リカルドの死

父ロドリゲスはディーノの成績が不本意だったのだろう。上位と戦えるもっとパワフルなマシンを求め、NARTのキネッティが所有する3ℓV12のテスタロッサ(シャシーNo:0746TR)と0776を交換した。NARTはその後もアメリカで0776を走らせ、61年のセブリング12時間に参戦するが、18位が精一杯だった。このレース後、フィールプが0776を買い取り、6月のカナダのモービル1スポーツカー・グランプリでハドソンとコンビを組んで6位の成績を残している。翌62年3月、キネッティの仲介により、0776は1万ドルでNARTのプライベート・ドライバーのトム・オブライエンに売却された。

ロブ・ウォーカーがチームドライバーのシフェールの強い勧めを受け、0776を手に入れたのは66年のことだ。これには因縁がある。プライベーターとしてF1を戦っていたウォーカーはロドリゲス兄弟に興味を持ち、フェラーリのワークス・ドライバーになった弟のリカルドと62年のメキシコGP(ノンタイトル戦)で1レースだけ契約。ところがその予選でリカルドは帰らぬ人となってしまったのだ。ウォーカーは0776を公道用に登録して「RRW1」のライセンスプレートを付け、12年間にわたって愛用した。

そして、今、完璧なレストレーション

以後、0776はコレクターの間を転々とするのだが、ケリー・マノラスの熱意のおかげで92年からヒストリックカー・レースで新たな歩みを始めることになる。マノラスはオーストラリアでは著名なコレクターで、地元のスターレーサーのスペンサー・マーチンを起用してレースに参加した。マノラスが手放した後のオーナーには、ヴィスカウント・コードレイやアンソニー・バムフォード卿などがいる。08年グッドウッドのサセックス・トロフィー・レースでは、ジャン・マルク・グーノンが熱いバトルを演じて4位入賞を果たした。完璧なレストアを終えた0776は今、アメリカに戻ろうとしている。この価値あるマシンが彼の地で再びヒストリックカー・レースに登場することがあれば、われわれはまたその勇姿を目にすることができるだろう。
next:「AUTOCARアンケート」にご協力ください!

 

フェラーリ・ディーノ196S

■生産期間 1959年 
■生産台数 3台 
■車体構造 チューブラー・スティール・フレーム 
■エンジン形式 V6 DOHC 1983cc + トリプル・ウェーバー42DCNキャブレター 
■エンジン配置 フロント縦置き 
■駆動方式 後輪駆動 
■最高出力 195ps/7200rpm 
■ギアボックス 4段M/T 
■ホイールベース 2220mm 
■サスペンション (前)ダブル・ウィッシュボーン + コイル(後)ライブアクスル + コイル 
■ステアリング ウォーム&セクター 
■ブレーキ ドラム 
■最高速度 250m/h 
■現在中古車価格 10億円