10倍の値段を払っても、人はやっぱりブランドが欲しい

この間、さる取材で工場見学に行った時、工場の担当者から「商品に寄った写真は撮らないでください、うちでは別のブランドの商品も作っているので」と説明があり、まあその時はなるほどなるほどと大人の対応で了解したものの、心の中では「こういうのってなんだか不思議だわあ」と思っていた私です。

例えば海外のハイブランドAのデニムは、実は日本の***県のB工場で作っている、製品は品質から縫製から全く同じで、そのブランドならではのラインなどもこの工場ならでは技術――だけどAの値段はBの10倍、みたいなことはないことではありません。

ところが、そしたらBのデニム買えばいいじゃない――とはならないのが不思議なところ。もちろんブランド物は品質が保証されている、それもある種の事実ですが、全く同じ品質のノーブランドよりもブランドものが欲しいのは、そこに人が求める何かがあるからに違いありません。それって何なのかしら。

さて今回のネタは、クリステン・スチュワート主演の『パーソナル・ショッパー』。この映画を見て「パーソナル・ショッパー」なる仕事を初めて知ったのですが、忙しいセレブのための服やアクセサリーのお買い物代行業。ヒロインのモウリーンはそのパーソナル・ショッパーで、自分の服はそっちのけで年中他人の服ばっかり買っている人です。そんな彼女がある時、クライアントの服に袖を通してしまったことから、物語には妙に危険な空気が漂い始めるのですー。

衣装を脱いだ時のアナタは、いったい何者なのかしら

うーむ、すごいなと思うのは、それまでおっさんみたいな格好しかしていなかったモウリーンが、ブランド服を着て鏡を見て、ある種の恍惚状態に陥ることです。もちろんモウリーンを演じるのが超絶美女のクリステンなので、おっさんスタイルとキラキラドレスの落差は観客にとっても半端ないものではありますが、それ以上に、ふわふわしていたモウリーンが重みを取り戻したような感じというか。実はモウリーン、つい最近双子の兄を失っていて心にぽっかり穴が空き、そこを埋めるものをずっと渇望しているのですが、ブランドの持つ"なんか"がそれを埋めているのかもしれません。

俳優さんに「役作り」について訊ねたときに、よく聞くのは「衣装を着ると自然と役になれる」という言葉です。イメージが確立したブランドものって、そういう衣装みたいなものかもしれません。衣装を着ると確かにそれらしく、周囲がそう見ていることも感じられ、なんとなく落ち着きはするけれど、その反面、衣装を脱いだ時の自分は何者にも見えず……と思うと、なんだか私は妙に怖くなります。服だけじゃなく、大手企業とか、偉い肩書とか、そういう"衣装"にずーっと着られていたら、欲しい"衣装"が手に入らなくなった時、基準も自由も失ってしまうのではないかしら。もちろんそれはブランドの罪でなく、それを盲目的に信仰する人間の問題。

自分をブランド化しなきゃ!とか広告代理店みたいなこという人もいるのですが、何だそれ。そもそもブランドにならないと認められない社会、ブランドになっちゃえば認められちゃう社会って何かしら。それって楽しい? 正しい?

『パーソナル・ショッパー』

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