(左)技術本部長 島本 誠氏(右)デザイン本部長 長屋明浩氏

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売上高の約9割は海外。稼ぎ頭は新興国だが、経済が成熟すれば「生活の足」は四輪に変わる。「趣味の二輪」を売り続ける方法とは――。「企業の活路 ヤマハ発動機」。前編「ヤマハの社長がバイクの免許を取った理由」に続き、後編をお届けする。

■「ヤマハらしさ」を言葉で表現してみろ

現在、ヤマハ発動機の二輪車のラインアップを見ると、14年頃から順次始まったプラットフォーム・モデルの躍進が目立つ。新興国でベストセラーとなっている各種スクーター、先進国向けのRシリーズやMTシリーズと呼ばれるスポーツモデルなど、それぞれに特徴的な地位を築いた商品が並ぶ。

「いま、我々が商品を増やしているのは、あの時期にフレームと『ブルーコア』と名付けた新エンジンを作り込んだ結果だと考えています」(技術本部長 島本 誠)

リーマン・ショック後の赤字計上をきっかけに、同社は柳の経営方針のもとでモデル数を減らした。そのなかで進められたプラットフォーム化は、車体の骨組みが見え難いスクーターなどの車種でまずは進められた。同時に組織改編を行い、以前は別々だった設計・実験・製造技術の部門と部品の調達などを担うコスト開発部門を統合。デザイン本部という新部署を立ち上げると同時に、個々の商品開発については「PF車両ユニット」という新たな組織を立ち上げた。

「ユニット組織を作った際、私たちはこれまで特に言葉にしてこなかった『ヤマハらしさ』とは何か、我々の提供価値とは何かを、以前の開発部や調達部、デザイン部のメンバーが一緒になって議論したんです」と島本は話す。

その頃、磐田の本社の会議室では、夜になると各部署の社員が集まって議論を交わした。メンバーはエンジンやフレームの開発者、車両のテストを行う実験部の社員、さらにはデザイン本部のスタッフなど約10名。そのなかで、それぞれの思う「ヤマハらしさ」を語り合い、それを言葉として表現しようとしたのである。

■ヤンチャだけれど品がある

開発に求められる「ヤマハらしさ」という曖昧な概念を、具体的な言葉としてまとめたのは現在デザイン本部長を務める長屋明浩である。

2014年にヤマハ発動機のデザイン本部に来た長屋は、もともとトヨタ自動車でレクサスのブランディングを担当していた人物。その後、トヨタ車の生産モデルのデザインを統括し、出向先の子会社の代表を務めていた。ヤマハ発動機がデザイン本部を拡充するためにトヨタに人材を求めた際、この長屋に白羽の矢が立った。

「私が外から見ていたヤマハの製品のイメージと言えば、『ヤンチャだけれど品がある』というものでした」と彼は当時を振り返る。

「ただ、実際にこの会社で働き始めてみると、事業や経営をきちんと成立させていこうという流れのなかで、そのイメージがだんだんと普通になってきているのではないか、という思いも抱きました。もっとヤマハのデザインや製品が醸し出すイメージを、しっかりと尖らせていく必要がある、と」

長屋にとってヤマハ発動機の造る二輪車やボートの製品の魅力は、「扱いづらそうでありながら、何故か引き込まれる」という世界観にあった。だが、社員の多くは「ヤマハらしさを追求する」と口癖のように語る半面、それを具体的に定義できていなかった。そこで彼は会議のメンバーから出された要素をまとめ、これまで曖昧だった「ヤマハらしさ」を次のように定義した。

常識にとらわれない新たな発想で感動を生み出す「発」、信頼性や安心感を土台とした操る喜びを表す「悦・信」、魑魅魍魎のように人を惑わし、ひきつける力である「魅」、製品をユーザーに結びつける「結」――。

■現状のバイクだけでは「3兆円」には届かない

「経営の効率性を考えれば、組織のユニット化や全体最適は確かに進めるべきです。でも、僕らの製品はコモディティ化してしまうと、自分だけの商品、必要がなくても欲しい、というお客様の目的から逆行してしまう。いわば効率化とデザインの強化はヤマハがヤマハであるための両輪なのです」(長屋)

たとえば、近年の同社を代表する製品に、XSR900というモーターサイクルがある。これはスポーツモデルのMT09と同じプラットフォームを採用しながら、「ネオ・レトロ」という新たなスタイルを提案したものだ。

特徴は部品やフレームの共通化と同時に、タンクのアルミカバーやシートといった様々な部品にクラフト化したものを使用したことだ。一見すると確かにMT09とは別物の世界観があり、ドイツの権威あるデザイン賞「レッド・ドット・アワード」で最高賞に選ばれるという高い評価を受けた。

「量産化とクラフト化を組み合わせ、合理性と唯一性のバランスが合致した一つの例だと思います。オートバイやボートというのは、先進国の消費者にとってはなくても困らないものです。それをあえて買うのは、『魅』の部分にどうしようもなくひきつけられてしまうから。先行開発を前のめりで進めながら、そうした気持ちを呼び起こす世界観をつくっていくこと。それが僕らの使命です」(長屋)

昨年12月、デザイン本部長の長屋の指揮のもと、総工費21億円をかけて磐田本社の敷地内に「イノベーションセンター」という新たな開発拠点を建てた。5階建て延床面積8634平方メートルの建屋内には、広大なクレイルーム、屋外からの採光を活用したプレゼンテーションスペース、最新のバーチャルデザイン用設備などが備えられ、デザイナーとエンジニアがともに製品開発を行える工夫が凝らされている。「デザイン」へのヤマハ発動機の「本気度」が窺える施設だろう。

では、現在のヤマハ発動機はそうした設備投資の先に、どのような未来を描いているのだろうか。

リーマン・ショック以後のV字回復を実現した社長の柳は近年、次のステージとして「ひとまわり、ふたまわり大きな個性的な会社へ」という言葉を社内外で繰り返し語っている。

同社の16年12月期の売り上げは約1兆5000億円、全体の6割が二輪事業、2割が船外機・ボートなどのマリン事業で、残りの2割を四輪バギーやスノーモービル、ゴルフカート、産業用ロボット、FRP技術を活用したプール事業などの幅広い事業が担っている。海外売り上げは9割に上る。

「為替と市場が安定するという条件があれば、2兆円まではいまのビジネスで成長できる」と柳 弘之社長は語る。

「しかし、そのさらに先、たとえば3兆円という規模となると、新しい何かが必要です。イノベーションセンターもその一つですが、その実現のための研究開発にはしっかりと予算を投入し、力を入れています」

キーワードとなるのは「広がるモビリティ」というテーマだという。

■三輪バイクに込めた「四輪参入」の可能性

日本では初めて商品化されたフロント二輪の三輪バイク「トリシティ」は、そのテーマを象徴する一つの製品だ。

開発責任者である海江田隆は「トリシティが企画された経緯に『ヤマハらしさ』を感じた」と言う。

表面実装機や産業用ロボットを担うIM事業部にいた彼が、新事業を企画する会議(「タスク」と彼らは呼ぶ)に呼ばれたのは、柳が社長に就任した直後の2010年3月のことだった。会議のメンバーはエンジニア、営業、企画、デザイナーなど様々な部署から選ばれ、年齢構成は主に20代から30代の若手社員だったという。

「総務部から紹介された倉庫裏に、椅子や机、コピー機を運び込んで新しい事務所をつくったんです。集められた社員は各部署の『エース級』と言っていい若手でした。新事業をトップダウンで考えず、経営陣が自ら主導して若手を集めて新事業を考えさせた。そこが『うちらしいな』と感じました」

約20名の会議メンバーは3つのグループに分かれ、ASEANや先進国を中心とした市場調査を行った。彼らは実際に現地での調査も行い、10個の提案をレポートにして経営陣に提出した。フロント二輪の三輪バイク「トリシティ」はそのうちの一つで、「ヤマハの作り出す未来像の一つ、より安全で快適なモビリティのあり方として提案されたもの」だった。

だが、実際に提案された製品のコンセプト以上に、海江田はこの「タスク」が有意義なものであったと感じている、と話す。それは自社の若手の社員が「ヤマハ発動機の未来」について、自分たちの世代とは異なる夢と強い危機感を持っていることを知ったからだった。

「『タスク』に集まった彼らは、私たちの世代のような『“もの”をつくってたくさん売ればいい』という価値観から自由でした。僕らの事業は将来、それだけでは成り立たない。そのことを彼らはしっかりと肌で感じていた」

売り上げの多くを担う二輪事業の抱えるジレンマは、新興国の経済が成熟していく過程で「生活の足としての二輪」の需要が縮小していくことだ。四輪車の需要拡大とともに二輪車は「生活必需品」から趣味性の高い商品へと変化していく傾向にある。

柳は言う。

「よって僕らが『ふたまわり』の成長を遂げるためには、新しい事業に踏み出すための種を常にまいておく必要がある。その意味では二輪から三輪、四輪も見据えたっていい。マリン事業についても、より高性能な制御が可能な製品を生み出す余地があるはずだし、また、農業用のヘリコプター、産業用ロボットなどにもまだまだチャンスがあると考えています」

■新興国で磨いた伝統芸「需要ごと市場を作る」

自動運転分野においては、アメリカで「MOTOBOT(モトボット)」と呼ばれる二輪車を操るロボットの研究が進められている。いずれはバイクレースの最高峰・MotoGPのライダーであるバレンティーノ・ロッシと対戦する企画も準備されており、数十年後の二輪市場の変化を見据えた研究開発の目玉の一つだ。

海江田が責任者となった前述の「タスク」では、若手社員が明確にそうした「変化」を見据えた危機感を持っていたという。彼らは自動運転や新たなソフトウエアの開発、EVといった「ものづくり」だけではなく、公共交通やインフラのあり方の提案、それらと連動した交通システムなど、幅広い視野で新規事業にまつわる議論を熱心に行っており、海江田は頼もしさを感じたのだった。

1955年、ヤマハ発動機が初めて「YA.1」というモーターサイクルを市場に投入した頃、日本には約200社の二輪車メーカーがあった。多くのメーカーのバイクは商用向けの黒いカラーリングだったが、後発の同社は栗茶色を基調としたほかにない色合いで独自性を出した。「赤トンボ」と親しまれたYA.1ではレース活動にも力を入れ、二輪車における「ヤマハ」の存在感をアピールした。

マリン事業においても彼らは南米の奥地に船外機を運び、まだ木のくり舟で漁業を営んでいた現地の人々に、漁法を教えるところから市場の開拓を始めたという歴史を持っている。泥の多いアマゾン川流域で鍛えた船外機の技術は「エンデューロ」という製品となり、新興国でのシェアを一気に伸ばしていく起爆剤となった。

いまもアフリカなどを中心に活動する海外市場開拓事業部長の稲村徹哉は言う。「30〜40年前、我々の先輩の営業マンたちは、中東の国の砂浜の上でごろ寝し、翌日には次の村に向かうようなやり方で市場を開拓していきました。二輪車で大きな市場となったインドネシアでも、最初は大学の寮に泊めてもらいながら開拓していったんです」

そのように全くの新しい土地で、新しい需要を作り出そうとしてきた伝統がヤマハ発動機にはある。「20年後、30年後を見据えたヤマハらしいモビリティを探し、新たな事業へとつなげていきたい」

柳の語る「ひとまわり、ふたまわり大きな個性的な会社へ」という掛け声もまた、そうした「ヤマハ発動機のDNA」を受け継ぐものだといえるだろう。

(文中敬称略)

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稲泉 連(いないずみ・れん)
1979年生まれ。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など著書多数。

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(ノンフィクション作家・ノンフィクションライター 稲泉 連 市来朋久、プレジデント編集部(海江田氏、島本氏)=撮影)