慶應義塾大学三田キャンパスの旧図書館(出所:)


 安倍首相の憲法改正案で注目が集まっているのは第9条だが、もう1つ見逃せないのは、高等教育の無償化を打ち出したことだ。これは日本維新の会の公約だから、政局的には「維新への多数派工作」と見ることもできるが、安倍首相の思いも同じらしい。

「未来のために人材に投資しよう」という意見に反対する人は少ない。与野党から出ている「教育国債」とか「こども保険」の類も大同小異である。もちろん教育投資は重要だが、そのために「学校」は必要なのだろうか。大学への公的投資に見合うリターンはあるのだろうか。そして憲法改正は必要なのだろうか。

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「毎年3兆円の赤字財政」の約束

 安倍首相のビデオメッセージの教育に関する部分はこうなっている。

現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさに、戦後の発展の大きな原動力となりました。70年の時を経て、社会も経済も大きく変化した現在、子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならないと思います。

 

 高等教育というのは大学(短大・高等専門学校を含む)を指す。ここでは「無償化」という言葉は使っていないが、国会でも首相は維新の公約について「思いは共有している」と答弁したので、これは「大学の授業料を無償化」することと解釈していいだろう。

 文部科学省によると、大学・短大の授業料を無償化するには、毎年3.1兆円が必要になる。これをすべて国費で負担すると、文教予算が8.4兆円になる。これは一般会計歳出の8.6%を占め、公共事業費(6兆円)や防衛費(5.1兆円)を超えて、社会保障関係費を除くと最大だ。つまり高等教育の無償化は、毎年3兆円の財政赤字の約束なのだ。

 ではその投資に見合うリターンはあるのだろうか。毎年3兆円とするとGDP(国内総生産)の0.6%だから、これによって潜在成長率がそれ以上あがるなら正当化できるが、世界銀行など多くの実証研究が示しているのは、その逆である。大学教育で成長率は下がるのだ。それは働き盛りの若者を4年間、非生産的な授業に出席させて学歴を与えるだけだ。

 だから大学教育の社会的収益率はマイナスと推定されているが、私的収益率は高い。学歴の「シグナリング効果」(能力があると見せる効果)が大きいからだ。

 財務省は財政制度等審議会の分科会で、「大学教育は生涯賃金の増加につながるという私的便益が大きい」ため、公費負担はなじまないとの考えを示した。大学・大学院卒者の生涯所得は高卒者より6000〜7000万円高い(独立行政法人労働政策研究・研修機構)ので、授業料よりはるかに高い。

 だから奨学金を貸与型から給付型に変えるのは逆で、貸与の対象を広げるべきだ。教育投資のリターンは大学によって大きく違うので、奨学金が返せないような大学には行くべきではない。大学の私的便益は大きいが社会的には浪費なので、公費助成すべきではないのだ。

大学は「私的便益」が大きい

 かりに大学への公的投資の収益率が年0.6%を超えるとしても、今の憲法で「義務教育は、これを無償とする」と定めている。公立小・中学校の授業料の無償化を定めているのは教育基本法だから、大学の授業料を無償化するなら、教育基本法を改正すればいい。なぜ教育基本法を飛び越えて、憲法を改正するのだろうか?

 この点を私はテレビ朝日の番組で(維新の実質的な党首である)橋下徹氏に質問したが、答は曖昧だった。彼も通常の法改正でできることは認めたが、「憲法で決めたほうが優先順位が高くなる」という。

 しかし憲法で規定すると、間違いと分かっても法改正で元に戻せない。今の憲法が70年も変わらないように、巨額の財政赤字が毎年続くだろう。憲法というのは国制(constitution)を定めて立法行為を拘束する「メタ法律」であって、教育のような個別の行政事務を定めるものではない。

帝大モデルから慶應義塾モデルへ

 本質的な問題は、公立・私立の大学の授業料を国が全額負担することは、すべての大学の国営化を意味するということだ。

 現在の憲法は、私立学校に対する公的助成を禁じている。第89条では、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と定めているのだ。

 この「公の支配に属しない」というのは「私立」という意味なので、私学助成は明白な憲法違反である。大学を(私立も含めて)無償化するなら、第89条も改正が必要だが、これはさらに大きな問題を引き起こす。

 第89条は、政教分離の規定である。キリスト教系の大学に補助金を与えることは、「日本政府はキリスト教を奨励する」という意思表示になる。森友学園のように教育勅語を教える学校を助成したら、いま国会で騒がれているように「皇国史観を奨励する」と解釈されるだろう。第89条は国は大学教育に介入してはならないという意味なのだ。

 大学の無償化を求める人々は、大学のモデルとして東大を頂点とする「帝国大学」を考えているのだろうが、日本の高等教育は明治10年に設立された東京大学(のちの東京帝国大学)で始まったわけではない。福沢諭吉が慶応4年に設立した慶應義塾が最初である。大学を「官立」で設立すべきだという森有礼を、福沢は次のように批判した。

生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。(『学問のすすめ』)

 

 教育を行うにはまず政府の援助が必要だというのは、政府でなければ何も実現できないという思い込みだ。必要なのは個人が自立することであり、国の自立もそれなしでは実現しない――という福沢の議論は明治時代には早すぎた。帝大に優秀な学生を奪われた慶應義塾も、大学を設置せざるをえなかった。

 彼の理想は、現代のほうが重要である。大学を無償化して「公の支配」のもとに置こうという人は、すべての大学を帝大にしようといっているに等しい。そんな大学から「イノベーション」が出てくるはずもない。

 高等教育は必要だが、インターネット時代に大学というハコモノは不可欠ではない。中世から続いてきた大学というレガシーは終わったが、その次のモデルは慶應義塾にある。

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筆者:池田 信夫