2009年に公開された『The Cove(ザ・コーヴ)』というドキュメンタリー映画、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。和歌山県で行われているイルカ追い込み漁を厳しく批判する内容の映画で、この作品の評価を巡って国内でも大きな論争が巻き起こりました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、イルカ漁と同じく海外から「野蛮だ」との批判を浴びているクジラ漁、つまり「捕鯨」について、外国人のみならず当の日本人もあまり知らない歴史を紐解きつつ、その「批判の是非」について考察しています。

日本人はクジラの供養塚を建ててきた

捕鯨は江戸時代には日本各地で盛んに行われていたが、捕鯨の港の近くのお寺には、必ずと言って良いほどクジラの供養塚や墓がある。さらに、捕れたクジラ一頭ずつに戒名をつけ、供養している所まである。

昔からクジラを利用してきた国々は多いが、このようにクジラの霊を供養してきたのは、日本だけである。

また、我が国ではとれたクジラは肉だけでなく、骨はかんざしや櫛に、ヒゲは楽器に、内臓は各種の薬に、というように、すべての部位を利用してきた。

我が先人たちはいただいたクジラの命に感謝して無駄なく利用し、その上でクジラの霊が成仏するように祈ったのである。

これとは対照的なのが、アメリカの捕鯨である。19世紀中葉には、アメリカの捕鯨船は日本近海までクジラを捕りに来て、そのために1万頭ほどもいたセミクジラは1,000頭ほどに激減したと言われている。

それも灯油や機械油とするために、体重の10パーセントほどしかない脂肪をとるだけで、残りの肉も骨も内臓もすべて海に捨てていた。

アメリカ国内で石油が発掘されるようになると、捕鯨は衰退し、今度は一転して「クジラを捕る民族は野蛮だ」「クジラがかわいそうだ」と言い始める。

その変わり身の早さは別の問題として、日本人にはクジラに対して、他国民にはない、格別な思い入れがあった事を知っておく必要がある。

縄文時代からクジラを食べていた日本人

日本人とクジラとのつきあいは、有史以前に遡る。8,000年から9,000年前の縄文時代の貝塚から、たくさんの鯨類の骨が出土している。

たとえば縄文時代の前期から中期のものと言われる長崎県平戸市にあるツグメノハナ遺跡の貝塚からは、たくさんのクジラやイルカ、サメなどの遺骨が出土している。クジラの解体や皮剥などに使ったと思われる石器も出てきている。

興味深いのは、クジラの骨の加工品も出土していることだ。箸のような突き刺す物や、首飾り、腕輪などの飾り物である。

日本列島の近海は、北からの親潮、南からの黒潮が合流するので、もともと多くの魚が集まる。それを追いかけて、クジラがやってくるので、日本近海は世界で有数のクジラの多いところなのである。

海流に乗ってやってきたクジラが湾内に迷い込み、浅瀬に乗り上げて動けなくなることも少なくなかった。縄文時代には、こうしたクジラを捕獲していたと思われる。

弥生時代に入ると、船を使って、湾内に迷い込んできたクジラを捕獲する、より積極的な捕鯨が行われたと考えられている。長崎県壱岐市の原(はる)の辻遺跡から出土した約2,000年前(弥生時代中期後半)の甕棺(かめかん)には、捕鯨の絵が残されている。

興味深いことに、縄文時代、弥生時代ともに、複数の集落から同じクジラの個体の骨が出土していることが判明している。すなわち、クジラが一頭揚がったら、かなり広い範囲の集落に肉が配られ、近隣で分かち合っていたようだ。

久治良(くじら)、勇魚(いさな)

古事記、日本書紀、風土記、万葉集など、日本で最初の文献類にも、すでにクジラが登場する。

古事記には神武天皇がクジラを食べたという記述がある。原文ではクジラは「久治良」と表記されている。

「常陸国風土記(ひたちのくに、ふどき)には、現在の茨城県久慈(くじ)郡の地名は、そこにある丘のかたちがクジラに似ていることから、「倭健命(やまとたけるのみこと)が久慈と名付けた」とある。

クジラは勇魚(いさな)とも呼ばれ、クジラをとる人を「いさなとり」と呼んだ。「いさな獲り 海の浜藻の」と、「いさなとり」が海にかかる枕詞になっている歌が、日本書紀に出てくる。

万葉集でも「いさなとり」という枕詞を使った歌が12首もあり、当時の貴族階級の生活に、クジラが浸透していた様子が窺われる。

奈良時代には仏教の影響力が強く、肉食禁止令が出るほどであったが、海で獲れるクジラは「勇魚」、すなわち海の魚と考えられていたため、制約はなかったようだ。

平安時代にはクジラが捕れると、その肉を塩や醤油、味噌につけて京に送った。これを京の都に住む貴族や上級武士たちは、好んで食べていた。

室町時代になると、文献の中でクジラの記述が飛躍的に多くなる。当時、位の高い貴族や武士の宴会では、「式三献」という儀式があった。杯が酌み交わされてから、海の物、山の物、野の物、里の物という順に食べ物が出てくるのだが、海の物の中では、鯛(たい)、鯉(こい)に次いで鯨肉が出てくる。

室町末期に書かれた『四條流包丁書』という料理書には、食材としての魚の格付けが載っているが、そこでは最高の鯉の次がクジラなのである。

クジラは普通の魚よりもずっと味が濃厚で、活力源となるタンパク質や脂肪も豊富である。おいしく、栄養源としても優れた食材として、珍重されていた。

江戸時代には鯨食が庶民にも広まった

江戸期になると、庶民の間にも鯨食が普及していった。当時の江戸の町を描いた絵を見ると、居酒屋の軒先に「鯨」と書かれているものがある。

元禄時代に刊行された『本朝食鑑』は、さまざまな食べ物が登場するが、「毒がなく、最も人の体に良くて美味しいものは何かといえばクジラである」と書かれている。

江戸時代中期には、『勇魚取絵詞(いさなとり・えことば)というクジラの専門書も出版されて、クジラの種類、捕り方、解体の道具と方法、部位の名称などがすべてまとめられている。その付録の『鯨肉調味方』には、クジラの67の部位のすべての調理法が記述されている。

一般的な食べ方としても、生で刺身として食べる、鍋で煮て食べる、その他、ハリハリ鍋や、味噌で煮込んだクジラ汁など、調理法のバリエーションも非常に多かった。

特に鯨肉は米食との相性も良かった。米には味噌漬けや醤油漬けなどのしょっぱいものが合う。味噌や醤油のうまみはグルタミン酸によるものだが、そのうまみをクジラのイノシン酸は美味しく引き立てる。イノシン酸の多い鰹節が、醤油の味を引き立てるのと同じ作用である。

米を主食とし、醤油や味噌を多用する日本人の食生活の中で、鯨肉はまことに相性の良い食材だった。

捕鯨技術、保存技術の進歩

鯨食が庶民にまで普及したのは、供給面の発達と、保存・運搬方法の進歩による。

正徳3(1713)年ごろに出版された『和漢三才図絵』は絵入りの百科事典だが、そこには日本列島の地図が載っていて、各地方の捕鯨地が記されている。現在の佐賀県呼子、和歌山県太地、北海道松前、長崎県五島列島などが捕鯨の中心地であった。

井原西鶴の『日本永代蔵』には、和歌山の太地にいた「クジラ突き(クジラを銛で打つ人)」の名人、太地角右衛門をモデルにした男の話が出ていて、歌舞伎にもなっている。この男は約60メートルのセミクジラをしとめて、前代未聞の大きさであると書かれている。

その後、この太地で、丈夫な麻で造られた巨大な網を使った捕鯨法が考案された。何隻もの船で沖合に、小学校の校庭ほどの大きな網を張り、クジラをここに追い詰めてから銛で突いて弱らせ、網船で引っ張ってくるという捕鯨法である。これは歴史的に見ても、世界中どこにもない、日本独特の捕鯨方法であった。

これによりクジラは逃げる事もできず、また沈んでしまうことも防げるので、捕鯨の効率が飛躍的に高まった。この捕鯨法は全国に広まっていった。

また各地で捕鯨のための組織「鯨組」が成長していった。鯨組を構成するのは、海上での捕鯨従事者、陸上での解体、加工、運搬従事者、采配する親方などを含めて中規模組織で700人程度。太地では3,000人もの規模があった。当時としては、銅山などとならんで、鯨組はもっとも大きな産業組織ではなかったかと言われている。

保存技術の進歩もあった。獲れたクジラを塩漬けにすると、長期間、保存できるが、塩のために水分が抜けて、かさかさになってしまう。それを防ぐために稻わら(荒いむしろ)で巻くと、水分が保存される。これでおいしさを何ヶ月も保てるようになった。

海から取れる塩も、また稻わらも、我が国には無限にあったので、この保存方法は、まことに好適であった。

「いただきます」という言葉は日本人だけのもの

冒頭に述べたように、全国の捕鯨地のお寺には、たいていクジラの墓や供養塔がある。このようなクジラ供養が始まったのは、鯨組ができて発展していった1700年頃からである。

人間が生きるためとは言え、クジラを殺し、食べる事に対して、申し訳ないという気持ちがあったからであろう。どうか成仏して欲しい、という気持ちで、クジラ一頭一頭に対して、位牌をつくり、供養塔を建て、戒名をつけた。このような文化を持つ国は日本以外にはなかった。

考えてみれば、米にしろ、パンにしろ、肉や魚、野菜にしろ、人間が食べるものは、すべて生命あるものである。そういう命をいただく事によって、我々の命は成り立っている。『鯨は国を助く』の著者・小泉武夫氏は、こう指摘している。

だからこそ、食べ物に宿る命は大事に、粗末にしてはならないのだ。そこには感謝がなければいけない。日本人の「いただきます」という言葉は、あなたの命をいただかせていただきますという意味なのである。実は、この「いただきます」と同じような意味を持つ言葉は、日本以外にはどこにもない。

 

例えばキリスト教では食前に神に感謝するが、生き物や食べ物に対する感謝ではない。

 

あなたの命をいただかせて「いただきます」という言葉は日本人だけのものである。

(『鯨は国を助く』小泉武夫・著/小学館)

そしてクジラの命をいただく以上、その一部でもムダにしては申し訳ない。だからこそ、我々の先祖は、骨や歯、ヒゲ、内臓に至るまで、すべての部位を有効に活用してきたのである。

食物連鎖の中で生かしていただいている

捕鯨反対の理由の一つとして「クジラを殺すのは可哀想だ」と言う声があるが、クジラ以外の牛や豚や羊や鶏は殺しても可哀想ではない、というのは理屈が通らない。

植物しか口にしないベジタリアンがこう言うのなら、まだ分かるが、極論を言えば、植物にも命がある。すべての動植物は、食物連鎖の中で他の命をいただきながら、自らの生命を保っているのである。

我々の先祖は、自分たちもこの食物連鎖の中で生かしていただいている、という感覚を持っていた。それがクジラの墓を作り、またすべての部位を無駄なく使わせていただいてた、という行為に現れている。

忘れ去られた「いただきます」の知恵

明治以降、西洋諸国から近代的な捕鯨方法が導入された。遠洋まで出かけられる大型船で、捕鯨用の大砲や銛を備え、それまでの網捕り方式とは比較にならないほどの大量のクジラが安全確実に捕れるようになった。

我が国も、この近代捕鯨法を導入し、世界有数の捕鯨国にのし上がった。捕鯨が全世界の海洋で競って行われるようになり、各国が捕鯨数を競い合う「捕鯨オリンピック」なる言葉までマスコミで使われるようになった。

この近代化の過程で、日本人は「いただきます」の心を忘れ去ってしまったようだ。クジラへの感謝の気持ちも、その成仏を祈る心も忘れ、ちょうどアメリカの捕鯨船がクジラの脂だけとって後は捨ててしまったように、クジラを大量生産・大量消費の「資源」としてしか考えなくなったようだ。

そして多くの捕鯨国が、こうした姿勢で世界中の海洋で捕鯨競争に奔走した結果が、クジラを一時、絶滅の危機にまで追い込んだのである。

欧米流の考え方では、地上の資源はすべて人間のためにあるとして取り尽くしてしまうか、それを防ぐために聖域として一切の利用を禁ずるか、の二者択一の発想しかないようだ。これは、あまりにも単純な発想である。

クジラの命を感謝して、無駄なくいただきながら共生を図る。日本古来からの「いただきます」の知恵を今こそ思い起こすべき時ではないか。

文責:伊勢雅臣

image by: MAG2 NEWS

 

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』

著者/伊勢雅臣(記事一覧/メルマガ)

購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

出典元:まぐまぐニュース!