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 もし正体がバレたら、死を超えた恐ろしい制裁が待っている。まぶたを切られ目を焼かれ、家族までもが無惨な拷問を受け、家畜のように殺されてしまうだろう。この恐怖に耐えながら麻薬密輸組織の内部に迫っていく潜入捜査官の孤独な戦いを描く『潜入者』は、一瞬の判断ミスが破滅を意味する、命綱なしの綱渡りのような映画だ。この緊張感の持続が、おとり捜査映画の面白さのひとつである。ここでは本作に代表される、おとり捜査映画の面白さを紹介しながら、『潜入者』の魅力に、できる限り迫っていきたい。

参考:伝説の麻薬捜査官本人も大絶賛! ブライアン・クランストン、『潜入者』の役作りを語る

■史上最大の麻薬組織に潜入する

 80年代は、史上最大といわれる麻薬王パブロ・エスコバルの時代であった。最近では、彼の組織メデジン・カルテルとアメリカの捜査官との戦いを描いた犯罪ドラマ『ナルコス』が話題になり、その名を耳にした人も多いだろう。彼の生涯は、実話とは思えないほど波乱万丈である。雑誌フォーブスの世界長者番付で7位となり、多くのビルや商業施設を建設し、またプロサッカーチームを所有したり、労働者のためのナイター機能完備のサッカースタジアムを造り、大勢のホームレスに住まいを提供するなど、エスコバルは地元メデジンの名士であった。しかし、その収入は、アメリカなどへの麻薬密輸によって得られたものだった。

 当時アメリカに密輸された麻薬は、一週間だけで15トン、4億ドル相当にのぼるという。密輸ルートとなったマイアミの街は麻薬まみれとなり、巷では「麻薬は新しい通貨」といわれるほど汚染が進んでいた。アメリカ当局は事態の阻止に動くが、もはや独裁国のように一大権力と化したメデジン・カルテルは、豊富な財力によって武装化し、さらに独自に情報員まで雇っており、当局の動きが事前に察知されるなど、壊滅作戦は困難を極めていた。

 外部からの捜査が難しいのならば、内部から攻めるしかない。本作『潜入者』が描くのは、そんな状況下で、アメリカの捜査官が、おとりとして組織に近づき、決死の潜入作戦に挑むという実話である。これがどれほど恐ろしいことなのかというと、警察の捜査に協力した者が、容赦ない拷問にかけられ、死体が市中に野ざらしにされるばかりか、その家族も犠牲になったという事件が、過去に何度も起こっているのである。

■潜入者自身も悪に染まっていく、おとり捜査の闇

 麻薬を題材にしたドラマ『ブレイキング・バッド』で大ブレイクを果たし、数々の主演賞の受賞を果たした、遅咲きの人気俳優、ブライアン・クランストンが演じるのが、本作の主役となる実在の潜入捜査官、ロバート・メイザーだ。メイザーは、マイアミでおとり捜査のエキスパートとして、売人を逮捕し成果を上げていたが、当局は組織のより中枢にダメージを与えようと、組織のカネの流れに目を付ける。その過程で、組織が不法に稼いだ資金の洗浄(マネー・ロンダリング)を、世界中の銀行が行っていた事実が明らかになっていく。メイザーは新たに、存在しない金融界の大物になりすまし、資金洗浄を行うメデジン・カルテルの担当者と接触し、ついには幹部ロベルト・アルケイノと個人的な友人関係を築くことに成功する。

 架空の男を演じながら、何度も何度も危ない橋を渡ることになるメイザーだが、本作で印象に残るのは、彼がたまたま組織の関係者とレストランで出会ってしまう場面だ。タイミング悪く、彼はそのとき本物の妻と二人で結婚記念日のお祝いをしている最中だった。潜入捜査に家族を巻き込むことはできないと考えたメイザーは、咄嗟に「彼女は私の秘書だ」と紹介するが、さらに間の悪いことに、そこにウェイターが「結婚記念おめでとう」という字を飾り付けたケーキを持ってきてしまう。その窮地を乗り越えるため、メイザーは人間性を失ったワルになりきり、妻の見ている前で、最低最悪の行動をとるのである。

 妻は、おとり捜査をやめるように懇願するが、メイザーはさらに捜査にのめりこんでいく。途中でやめてしまっては、今まで危険を冒してきたすべてを手放してしまうことになってしまう。メイザー自身が自覚しているかどうかは分からないが、組織の中心に近づけば近づくほど、危険を冒せば冒すほど成果が大きくなるチキンレースは、刺激的で甘美な魅力を発しているようにも感じられるのである。

 おとり捜査映画の、もうひとつの特徴というのが、犯罪者を熱心に演じることで、その人間性まで変わってしまうというところである。暴力団を取り締まる警察官の見た目や態度が、暴力団そのものに見えるという現象があるが、犯罪組織に潜入するおとり捜査官は、まさにそのものにならなければならないため、長年やるほどに心身に影響を及ぼしていくことは想像に難くない。俳優の世界でも、自身のプライヴェートまで作中の人物そのものになりきって、役の本質に近づこうとする「メソッド演技」なるものがあり、破壊的な人物を演じることで、生死の問題にまで発展してしまう場合がある。本作のメイザーも、現実の自分と架空の自分を往復することで、味方への疑心暗鬼に振り回されるなど、混乱をきたしていく。そもそも「本来の自分」とは何なのか。自分が思っている「自分自身」すら、何らかの役になりきっている状態なのではないのか。であるならば、自分が演じている役もまた、自分自身といえないだろうか。この演技の問題は、「自分とは何か」という実存を揺るがされる哲学的不安にも繋がっているのである。

■メキシコの犯罪者たちは、血に飢えた悪魔なのか

 おとり捜査映画の最後の魅力は、他のジャンルではなかなか味わえない、後味の悪さである。信用を得て友情を育むなど、ビジネスを超えて人間の情を交わしてこそ、より深くターゲットの内側に入り込むことができる。しかしそれは、潜入捜査官にとって、裏切ることを前提とした交流なのである。犯罪者とはいえ、家族や身内に対しては、情が深い人間もいる。メイザーは、自分の婚約者に扮した女性捜査官とともに、幹部ロベルト・アルケイノ夫妻と家族ぐるみの付き合いをする関係になってゆくが、アルケイノは極悪組織の幹部にも関わらず、少なくともメイザーに対しては、意外なほど気のいい人物であった。メイザーたちは、その「普通さ」に困惑し、罪悪感を抱き始めることになる。それは、パブロ・エスコバルの組織が、麻薬ビジネスで世界を汚染し、多くの人々を破滅に陥れながら、地元の人々に対しては愛情を持っていたという、人間くさい面に共通するものだ。

 ここで、日本の仏僧であり、仏教界の異端児ともいえる親鸞のエピソードを紹介したい。親鸞はあるとき、弟子に「私の言うことを何でも信じるか」と訊ねたことがある。弟子は「はい、もちろんでございます」と答えた。「では千人の人間を殺せと言えば、そうするのか」と親鸞が言うと、「そんなことをできるわけがありません」と弟子は驚いて言った。「ではなぜ、私の言うことを信じるなどと言ったのか。もし人を千人殺すことが正しいことで、どんなことでもできる立場ならば、迷いなく殺すことができるはずだ。それが正しいことであったとしても、たまたま殺すことのできる条件が整わず、事情が揃わないから、殺さないだけのことである。人は、自分が善い心を持っているから、人を殺さないわけではない」ということを親鸞は述べている。

 本作で描かれるメキシコ麻薬戦争や、血の報復など、自分には全く関係がない世界だと思っている人も多いだろう。だが、我々がたまたま80年代のメデジンに生きていたとしたら、パブロ・エスコバルに対してもっと同情的だっただろうし、自分を救ってくれるヒーローだと思っていたかもしれない。そして、彼の求めに応じて人を拷問したり、殺人を犯すことだってあったはずである。我々が殺人を犯さないというのは、「殺してはいけない」という常識が強く働いていることが影響している。いったんそのストッパーが外れ、権力を持った存在から「人を殺せ」と命じられたら、どうなるか分からないのではないだろうか。そのときに、その真の人間性が試されることになるのだ。

 メキシコの犯罪者たちは、血に飢えた悪魔ではなく、我々と同じく、血の通った人間に違いない。そして、そういう人間が麻薬を売り、殺人を犯すのである。おそらくその事実は、彼らの内部に潜入した者だけが、肌で感じる真理なのであろう。我々は映画を通し、そのことを追体験することができる。ブライアン・クランストンが演じる、犯罪者のなかに潜入する捜査官の視点は、80年代のメキシコの犯罪者と、我々とをつなぐものとして、スクリーン上に存在しているのだ。(小野寺系)