閣僚の「失言」騒動などで、本当は4月、新学期早々に記そうと思っていた、現在私が手がけているプロジェクトに関わる話題を今回はご提供いたしましょう。

 4月に上梓した、黒田杏子編著による金子兜太さんとのCDブック「存在者・金子兜太」は、俳句の書籍としては前例を見ない音源を伴う本としてご好評いただき、おかげさまで重版の運びとなるようです。

 「俳句」という文芸は、良い意味で万人に開かれ、一部の特権的な詩人によるのでなく、あらるゆ人が、一銭のお金の準備もなしに「いま、ここ」から始めることができる、世界に冠たる日本の芸術と言っていいでしょう。

 「俳句を世界遺産に!」という動きがあり、私も微力ながらこれを応援しています。

 かつて1980年代、学生として海外からの客人を案内するおり、新聞の一面に毎日、大岡信さんの「折々のうた」が連載され、市民の投稿する俳句や和歌が毎週毎週全くの一般メディア各紙誌を賑わせている日本の日常を紹介すると、ほぼ例外なく「驚くべき文芸大国」と賛嘆されたものでした。

 「Haiku」や「Haikai」は、近年は各国言語にも訳されて、よりその実体が知られるようになってきました。

 「世界で最も短い文学」俳句を、連休でもありますので、親子でご覧になることを念頭に、3つほどの異なる角度から、一音楽家の観点でスケッチしてみたいと思います。

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なぜ「季語」なのか?

 難しいことはおいて置いて、具体的に考えて見ましょう。

 俳句のようなものは、誰でもどこでも、何の準備もなく考えることができます。

 私の父は46歳の夏に末期がんの宣告を受け、実際に7か月後死んでしまいましたが、秋葉原の病院で、手持ち無沙汰に俳句のごときものを詠んでおり、面白くもおかしくもない素人吟ですが。

冷やしサイダーに 檸檬を落とし 甘露かな

正男

 などとやっており、当時小学校1年でしたが、私もあれこれ、目の前にあるものを5-7-5で詠んでみたりし、親父の葬儀ではそんなことが父の友達たちに知れ、葬儀の悼辞で紹介され買いかぶりで会葬者の涙などを誘っているのを、子供なりの冷静さで見ていたのを覚えています。

 別段万感などあったわけではなく、ただ5-7-5に文字を並べてみただけのことに過ぎませんでした。

 中学に入り、音楽を専門的に学ぶようになってから、再び不思議な形で私は俳句と出会いました。

 私の師、松村禎三は天涯孤独となって転がり込んだ東京音楽学校教授・池内友次郎氏宅の居候として作曲を学びましたが、音楽学校の入試合格後、肺結核の罹患が判明して、上野の学校の代わりに清瀬村の結核病棟に隔離されてしまいます。

 ここで7年にわたって生死の間を彷徨う間、ピアノにも向かえず、音符も書けずという中で、自身の存在証明のように取り組んだのが俳句でした。

 池内友次郎氏の父親は高濱清氏、つまり虚子で、池内氏自身も俳人として活躍し、松村自身「病棟俳句」の担い手として同世代の寺山修司、宗田安正といった人々と終生の友情を結びます。

 しかし、ストレプトマイシンのおかげで社会復帰してからは、ぴたりと俳句はやめてしまい、音楽だけに集中する人生を選びました。

 とはいえ、後年、遠藤周作氏の原作によるオペラ「沈黙」に取り組んだおりには、最初の10年強をリブレット、つまり歌詞台本の作成だけに費やし、松村は松村のあり方で、文学と音楽の間で己を燃焼させたと思います。

笑うことなき日 午後より蟻出づる

旱夫

 「旱夫」は「ひでりお」と読ませる松村の俳号で、これはベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ=Fidelio」に由来する、言ってみればギャグですね。

 昨今はもう、音楽教育はすっかり学校組織が普通になってしまい、私のように内弟子という古臭く特殊な育ちの人間は、少なくとも日本では極めてまれになってしまいました。

 しかし、噺家の修行と同様、三十何年か前の私たちは、教科とか課題が整理された受験システムのようなビニールハウスではなく、善くも悪しくも芸術人としての実践でごちゃごちゃになった現場で、なじられたりいじめられたりもしながら音楽という職掌を学びました。

 「笑うことなき日」とは、文字通り、朝から笑うことのない死が日常化した結核病棟で、清瀬村の結核病棟の白い天井を、パイプのベッドに横たわってじーっと見つめているのだそうです。

 昭和20年代前半の療養所は、昔の建築物で建てつけが悪く、天井や壁にひびが入っていたと言います。

 それをじっと見つめていると、午後になってそこから蟻が這い出て来た・・・。蟻が来るということは、えさがあるということで、今まで生きていた人が蟻のえさになる状態に変化したことを、入院患者たちに知らせます。

 こういう、何とも言いようのない話を、三越劇場などの楽屋に私を伴って(そのときは松村が水上勉さんの「五番町夕霧楼」という舞台の音楽を担当していました)、現場で「これ、作曲の卵」とか紹介してもらいつつ、私の音楽には罵詈雑言しか与えられず、仕事の後は新宿のフィンランドサウナなどにお供して背中など流し、食事時もまたニヤニヤしながら罵詈雑言・・・。

 旧制高校の学寮みたいな、好き放題の松村で、私は小姓のようなものだったと思います。

 さて、そんな中で私が「季語」について、何となくそういうことかな、と思ったのは、人間の有限の生や意識を超える装置だ、ということですね。

 俳句をひねろう、と思うと、歳時記を買ってきたりして、季語が入っていなければならない、なんて言ったりします。

 「なぜ?」と問うと、必ずしも明快な答えは返ってこない。

 「そういうものだから」式の答えが多い気がしますが、それでは弱いですね。実際、金子兜太さんの代表句の多くは、無季語の傑作が知られます。

湾曲し火傷し爆心地のマラソン

兜太

 長崎原爆の爆心地で詠まれた金子さんのこの句に、季語はありません。さらに言えば、5-7-5 17文字ですらない。

 有季・定型といった小さな枠を大きく破って、破格の中に俳句というものの可能性を大きく開く1つの足跡と思います。別に季語なんてなくてもいいのです。

 そういう意味では、松村の「笑うことなき日・・・」も、厳密には季語を欠くと言えるでしょう。

 「蟻」は夏の季語として扱われますが、松村が詠んだ結核病棟の死の予感は、四季と無関係に訪れる人間の死という本質と直面するもので、夏場で蟻が這い回り、亡くなったばかりの結核患者の死臭が漂って・・・といったリアルに還元してしまうと、かえって句の心を損なうと言うべきでしょう。

なぜ、俳句は季語を詠むのか?

 唯一の理由などありえませんが、私はこれを、人の思惑、つまらない嘘や浅い感傷を離れて、ある突き抜けたものに至る方法として「季語」という知恵が労作されたように考えています。

 別段俳壇の偉い人から怒られても構いません。一音楽家としてそう思っているというだけのことです。その観点から私は句を鑑賞し、楽興を覚えれば作曲し演奏する、というだけのことで、正解かどうかなど知ったことではありません(笑)。

 ただ、松村から教えられた池内門下の音楽書法の考え方と非常に近いものがあるので、そういう歴史の証言としてご笑覧いただければと思います。

 犬や猫は嘘をつきませんよね。植物の種を撒けば、四季折々の条件で左右はされるとしても、正直に花は咲き花は散る。

 翻って人間の辱世はどうですか。東北でなくて良かったとか、身障者施設に政治家が裏金をたかるだとか、およそろくでもないことだらけではありますまいか?

 そういうアホみたいな汚らしいものに背を向け、天然自然のゆっくりと変化する細部に目を転じてみると、何が映っているでしょう・・・?

ひさかたの 光のどけき 春の日に

       静心なく 花の散るらむ

紀友則

 和歌であれば「静心なく」散る花びらに事寄せて、静かならざる我が心を、その自然に事寄せてうたうことが少なくないかもしれない。しかし、これはどうでしょう?

さまざまのこと思い出す桜かな

 静心なく・・・という特定を超えて「さまざまのこと」という、何も言っていないような上五中七は一見平凡に見えて、この句を詠んだ人物が武士としての出世も考えていただろう20代前半、主君が25歳の若さで急逝し、それを気に脱藩、故郷の伊賀から江戸に出て俳句の宗匠として名をなした松尾忠右衛門宗房、つまり芭蕉が、人生の後半に至ってかつての主家の宴に招かれての万感が静かに湛えられています。

 あれこれ、主情を表現するんじゃないんですね。「客観だ写生だ」と言いますが、それは、個人が個人のあれこれを言い立てても見苦しいだけのことだと、大人なら誰もが知っているから。

 矢代秋雄さんという作曲家がおられました。池内門下の長男的存在で、現実にも日本の美術評論家の草分け的存在、矢代幸雄氏の長男でありましたが、彼は音楽で心情を表現しようなどとは微塵も考えなかった、としばしば言われます。

 矢代秋雄氏は私が音楽を学び始める直前、1976年に46歳で急逝され、後任の東京芸大作曲第一講座教授として同門、同年の松村が着任するのですが、また両者は全く異なる資質を持つ音楽家でありました。しかし2つ共通する点がありました。

 1つは、徹底して寡作であるということ。推敲して推敲して推敲して、結局未完で終わった作品も少なくない。

 で、もう1つが、浅く心情を表現しようなどとは思わないこと。心情というのは、聴き手が演奏に触れ、そこで何か興趣を得たら、そこで発生するものであって、音楽家の仕事は、例えば作曲家は、響きの構造としてコンポジションに徹すること。

 演奏家の仕事は自分の主観を投射してカタルシスに酔うことなどでは全くなく、音楽構造が指し示す響きの実質に徹底して禁欲的に奉仕すること・・・。

 「厳粛主義」などと訳される、そんなリゴリズムに徹していたと伝説のように語られます。

 こういうあり方に戦後のアヴァン・ギャルドは保守を見出し、矢代さんも松村も守旧派の首領のごとく見られた面があります。

 その伝統側に音楽的な出自の根を持ちながら、同時に前衛の側で「あっかんべー」的な行動ばかり取っていた若い頃の私は、矢代さんや松村の持つある無頼性(それはむしろ、禅に惹かれた米国の前衛、ジョン・ケージのそれにも通じるようなアナーキーなものでもありましたが)を知っていたので、見かけの矛盾と違う芸術の実相を一貫して感じたものでした。

 40歳を過ぎて開高健賞などを貰ってから、ネットや紙誌に文字を出稿するようになりましたが、私は古典音楽に立脚し、かつそれを完膚なきまでに破壊し再生する書法と演奏を仕事とする、やや細かいジャンルの音楽で30代前半から教授職として後進を育てるよう看板を掲げている職人の音楽屋です。

 ビューが立つとは思いませんが、一芸術人の証言として、俳句にまつわるいくつか、引き続き記しつつ、今日の私たちが直面する社会も、少しだけ逆照射してみようかと思います。

(つづく)

紫雲英(れんげ)田に侠客ひとり裏返し

兜太

筆者:伊東 乾