Twitter炎上に見るネット世論とバベルの塔  そしてマストドン出現へ: 情熱のミーム 清水亮
休日、暇をもて余していたら「バベル展いかない?」とデートに誘われた。彼女はいつも僕が行きたいと思う絶妙な展示会を探してくる。東京都美術館で開催されているプリューゲルの「バベルの塔」をメインとした展覧会だ。展覧会そのものはこじんまりとしていたが、CGや藝大の展示がインパクトがあって楽しめた。

──バベル。

ヘブライ語で「混沌」を意味する。旧約聖書にはこのような記述がある。
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。

「創世記」11章1-9節
https://ja.wikipedia.org/wiki/バベルの塔

要するに、なぜ人はそれぞれの地域で違った言葉を話すのか、という理由をバベルにもってきたわけだ。

さて、現在「言葉の壁」は崩壊しつつある。Google翻訳がある世界では、英語を改めて勉強する必要は日に日になくなってきている。英語どころか他のどんな外来語も、「HELLO」「BYE」「YES」「NO」「EXCUSE ME」「THANK YOU」だけ覚えれば世界中どこへでも旅行できる。あとは固有名詞とか写真とか見せればなんとかなる。電波の届く範囲ならGoogle翻訳が使える。この傾向はもっと続くだろう。

しかし一方で、国と地域が別れていることのメリットとデメリットもよく把握されている。ここ数十年で重要視されるようになってきたのは統一性(グローバリズム)よりもむしろ多様性(ダイバシティ)である。

現在は価値観が多様である世界のほうが、価値観が均一的である世界よりも豊かで生存性が高いことはよく知られている。数度に渡る社会主義革命の失敗はそのひとつの例だ。

均一を求めた全体主義は独裁者を生み出し、互いが互いを密告し合い、秘密警察が跋扈する社会をつくり上げた。おそろしいのは、人は一度特定の価値観で振る舞うようにプログラムされると、すぐさま冷徹にその価値観の実行者となってしまうことだ。

いまの自由主義国家の多くでは、多様性が認められ、地方分権が善とされている。多様な価値観をもつ人たちが力をあわせることが、均一的な価値観をもつ人たちが独裁的に支配することよりもより効果的にものごとを解決できることがすでに知られている。

価値観が多様であるからこそ価値が生まれる。国が隔たれているから疫病が蔓延しにくい。これは生物そのものが個体としてはつねに多様であることと似ている。多様であるからこそ生き残れる。

僕は神には人間にとっての恐れがあったというよりも、人間のためにならないから、言葉を乱し、複数の民族に分けたという物語なのではないかと解釈している。なぜなら真に人間の能力のみを恐れたのならば、そんな手間のかかることをするよりも、人間の言葉を奪うか、人間そのものを滅ぼしたほうが効果的だからだ。バベルは人間の傲慢さを表した象徴としてよく使われるが、その根底にあったのは神の愛だったのではないかと思う。もちろん神が実際にいたかどうかは別として。創世記という物語の中から感じるのは神の怒りというよりも愛である。だって神は洪水だって起こしたわけでしょ。言葉を乱すだけなんて優しすぎるじゃん。

これは集合知(wisdom of crowd)としてよく知られた概念だ。集合知が有効に機能するためには、「多様なバックグラウンドをもった人々」が必要である。

今日、学会であっても、その分科会であっても、さらに多様な細分化がなされているのは常識である。ひとつの統一的な価値観や興味範囲の人だけを集めても、議論が活発化せず袋小路に入るが、多様性をもった人々が自分の立場から様々な意見をぶつけることで新しい発見につなげていく。

ただ、こうしたメリットがある一方で、人にはそれぞれ守りたいものがある。個人のプライバシーや主義・主張。これは多様性の面から言っても、違った主義主張の人がたくさんいたほうが全体のメリットになる。

けれども、Twitterのような場所は、たとえばバベルの塔にも見える。使っている言葉は違えど、同じ場所で、同じようなことで会話している。

たとえば先日、プログラミングができるタレント、池澤あやかがちょっとした炎上騒ぎを起こした。炎上の内容そのものはEngadgetでも問題提起した「UPQが返品に応じない問題」なのだが、内容はどうでもいい。池澤は「スタートアップにそんなハイクオリティを求めても仕方ない」という意見を表明したところ、UPQが返金に応じないことが間違っていると考えている人々から攻撃を受けた。

プログラミングができることがウリの池澤は、「クソリプ撃退botをつくる」と宣言するが、まあ彼女流のジョークだろう。これがさらに炎上を人工的に加速させる仕組みとしてネットウォッチャーらから注目を集めた。が、その話はどうでもいい。

問題は、攻撃を受けた池澤がUPQとは何の関係もない人物であることにある。ある事象に対して、どういう感想をもつか、それは個人の自由であり、改めて攻撃されるべきことではない。池澤が当事者ならともかく、部外者である限りどのような意見をもとうが自由だ。

しかしTwitterには同じ言語を話すが考えの違う人が大勢いて、全体としてなんとなくのコンセンサスはある。つまり「ネット世論」みたいなものが緩やかに形成されていて、それに反対する意見に対する攻撃はなんとなく肯定される。建設的な議論ならまだしも、たんに「攻撃してもよい」というサインが出ているだけでウザ絡みするのはお互いにとって時間の無駄としか言いようがない。

要はこの2つの種類の人間はおなじ檻に入れてはいけないのである。

マストドンが実現する世界は、サファリパークのように、捕食者と非捕食者が住み分けを実現する。スタートアップのミスを肯定する世界と否定する世界、エロが正しいという世界とそうでもないという世界。エロは正しいがロリはまずいという世界と、全てのエロを許容する世界。

マストドンの場合、特定のインスタンスにどれだけ多くの人間を抱えているかということはさほど重要な意味をもたない。自分が心地よい相手とだけ連合すればいい。いまのところアカウントレベルのブロックとドメイン(インスタンス)レベルのブロックしかできないが、そのうちホワイトリストみたいなものもできてくるだろう。

バベルは非中央集権化(Decentralized)の象徴であるような気がして、なんだかたくさんグッズを買ってしまった。
情熱のミーム(清水亮)以前の連載