萩本欽一インタビュー「ボクは30代は『頭』、40代は『目』で頑張った」

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73歳で駒澤大学に通い始めて、もう1年余りが過ぎました(2016年)。ボクは「社会人入学」しているんだから特別扱いしてくれると思っていたんだけれども、そうじゃないんだね。毎回出席取られるし、試験もある。

ボクの大学入学は亡くなった母親の夢でもあったのです。父親の事業が傾いて、ウチはとても貧乏でした。中学生の頃に、母親が借金取りに頭を下げているところも目撃しちゃった。だから、大学進学を諦めたんだけど、母親はそれをずっと気にしていたらしいの。

ボクは、そんな母親を大きな家に住ませてあげたいと思い、有名になってお金を稼ごうと決めたんだ。それにはプロ野球選手か映画スターしかない。でも、野球は打撃センスがなくて、いち早く断念。役者も、自分の顔を鏡で見て無理だとわかりました。タレ目の俳優なんて一人もいないですからね。そして、高校を卒業して飛び込んだのが、「コメディアン」の世界でした。

職業柄、ボクは番組のロケなどで「名人」とか「名工」と呼ばれる人に会います。包丁を作る職人さんに聞いてみると、「小さい頃から好きで仕事に就いた」という人はいなくて、仕方なく家業を継いだという。だけど、努力して超一流になり「うん、やって良かったよ」と笑いながら話してくれます。

■我慢こそが運を呼び込む

ボクだって、最初からお笑いが好きだったわけじゃないし、まして才能に恵まれていたわけでもありません。自分はダメだと自覚したから、努力もしました。具体的にいうと、普通の人より「一歩」、いや「二歩下がったところから頑張ろう」と決めたんですよ。

ミュージックホールではフィナーレで、ボクらも踊り子さんと一緒にダンスを踊るんだけど、ボクだけが流れに乗れないの。客席からは失笑を買うし、演出の先生からは「欽坊、おまえはリズム感なさすぎ」とダメ出しをされて、とうとう舞台からはずされました。

そこで独習しかないと、ボクはまず一歩下がりました。さらにダンスではなく、まずリズムを身体に覚え込ませようと、ジャズドラムの教本とスティックを買ってきて練習したの。これで二歩下がったことになるでしょう。

もちろん辛いですよ。だけど、修業時代なんだから、じっと我慢するしかない。そんなとき、ボクは「石の上にも5年」と考えて耐えました。なぜって、我慢こそが「運」を呼び込むからです。

そうした失敗や辛い修業のなかで「人生の方程式」をいくつ作れるか。それが後々生きてきます。1966年に結成したコント55号でブレークしたときも天狗にはなりませんでした。チャップリンやエノケンになりたいと思っていたからです。2人と比べたら、やっと“足元”じゃないですか。

実はチャップリンが映画を作ったように、自分で自分の番組を制作するのがボクの夢でした。だけど、当時は超多忙ですぐには動けません。それなら、じっくり取り組もうと考えて、67年に立ち上げたのが「パジャマ党」です。世田谷の自宅に放送作家志望の若者4人を集めました。彼らにはコントの作り方も台本の書き方も教えていません。まったく新しいギャグを作ってほしかったからです。

大変だったと思いますよ。保証されているのは「三度の飯」と「寝る場所」だけ。それなのに、早い子で半年、遅くても4年で彼らのなかにある個性が“発酵”し始めたの。ラジオ番組で人気が出るようになり、テレビに進出し、レギュラー番組が持てました。やはり「石の上にも5年」は正しいでしょう。

■挑戦し続ける年寄りでいたい

コント55号が売れて、5年ほどたち、30歳になったのをきっかけに、ボクは1年間、これまでの活動を反省することにしました。有名になりたいっていう夢は実現したけれども、期待していたほど面白くはなく、ここで修正しないとまずいと思い、コント55号の活動も休止しました。

そして、テレビで誰もやっていないことにも挑戦したいと思っていたら、ボクが何よりやりたくないと思っていた番組の司会を頼まれた。その一つが、71年から放映された『スター誕生!』です。ここでは、男女2人組の司会というスタイルを持ち込み、以後、これが主流になっていったんだから、これも一つの運なのでしょうね。

振り返ってみると、20代はとにかく舞台で飛んだり跳ねたり、「身体」を使ってコントをしていました。それで観客に受けたんですけどね。なぜ、身体を動かすのがいいかというと、脳も活性化して、何かいいことに気づくからです。

そして、感性が備わってきた30代からは、徐々に「頭」を使い始めました。ボクは、この時代にテレビに関われたことはラッキーだったと思っています。だから、この年代は考えながら走ればいいんじゃないかな……。

また、40代からは「目」を使いました。考えること、舞台やテレビを数多くこなしてくることで、「観察力」が身に付いてきます。40代で、ボクが軒並み視聴率30%を超える番組を残せたのも、この時期に見つけたタレントさんたちが活躍してくれたおかげでした。40代が目なら次の50代は「耳」でしょう。それで「野球が存続の危機にある」と聞きつけて、社会人野球の新球団も作りました。

そして、いま70代になってわかったのは、行く手が2つに分かれていることです。一方の道は人生でそれなりに成功し、そのご褒美に別荘を建てて、のんびりと余生を過ごす「老人」。片方は、自分がじいさんだとは思わない「年寄り」なんです。

ボクは老人にはなりません。やっぱり年寄りです。だって、こっちは「年が寄って」きたら、身をかわせばいいから。それでボクはいま大学に通っているわけです。80代になっても、90代になっても、生きている限り挑戦は続けますよ。チャレンジのない人生なんて、全然面白くないからね。

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萩本欽一(はぎもと・きんいち)
1941年、東京都生まれ。60年代からコメディアンとしての活動を始める。坂上二郎とコンビを組んだ「コント55号」でブレイク。『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!』など多数のテレビ番組で高視聴率を獲得し、「視聴率100%男」との異名を取る。2015年、駒澤大学の社会人特別入試枠で合格し、仏教学部に在籍。

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(萩本欽一 構成=岡村繁雄 撮影=高橋健太郎)