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スターたちの影で奮闘した脇役や異端児をリチャード・ヘーゼルタインが温かい眼差しで解説する。

1992年のFIA世界スポーツカー選手権は「クルマが2台なければレースにならない」という古い格言を実証してみせた。舞台裏の政治的な策謀がレースを骨抜きにし、シリーズはこの年で終焉。それはスポーツカーレースの最後の偉大な時代の悲しい結末だった。

82年に導入されたグループCは、もともと燃費効率をベースにしたカテゴリーである。このことがシリーズを安定させる力として働き、元F1ドライバーや若手有望株、才能ある一匹狼らを魅了した。そして自動車メーカーも・・だ。北米にも同様の規則のグランドツーリング・プロトタイプ(GTP)が生まれ、グループCの勢いは大西洋を超えて広がっていった。

ここまでは素晴らしい。しかし90年、3.5ℓ自然吸気のF1エンジンがグループCでも使えるようにレギュレーションが改訂されると、マシンのコストが急上昇。それを賄える大メーカーしか残れなくなり、世界スポーツカー選手権は92年に、IMSAのGTPは93年に、それぞれ打ち切られてしまった。グループCの英雄たちに敬意を表しつつ、ここではあまり祝福されなかったマシンをいくつか紹介しよう。

第10位 イーグル


ダン・ガーニーのイーグルと混同しないように…。こちらの不幸なイーグルは90年のル・マンでデビュー。コルベットGTPをベースとし、元ドラッグレーサーのジョー・シュベックが開発した11,471ccという巨大なV8を搭載する。オーナーのポール・キャナリーのドライブで予選に臨んだが、電気系のトラブルに悩まされ、さらに漏れたオイルが後輪にかかってクラッシュ。修復したものの予選通過はならなかった。

第9位 グリッドS-2


グリッドはジュゼッペ・ライズとイアン・ドーソンが82年シーズンに向けて設立したコンストラクター。ジェフ・アルドリッジ設計の1号車、S-1はその年の選手権で完走1回にとどまった。2号車のS-2はプライベーターのダドリー・ウッドの依頼により製作したもの。S-1のエンジンはコスワースDFLだったが、S-2はウッドの希望でポルシェ935用のツインターボを積んだ。ウッドは83年シーズンをIMSAで走った後、84年はヨーロッパに戻ってC2クラスに参戦。同年のブランズハッチ1000kmで11位に食い込んでいる。

第8位 シェブロンB62


創業者のデレック・ベネットが78年に亡くなって数年後、シェブロンはレーサーでエンスージアストのロジャー・アンドリーソンによって買い取られた。B62はアンドリーソン時代のシェブロンが1台だけ作ったC2カー。85年のル・マンでデビューしたが、わずか90分でリタイアした。翌年はプライベーターのジョン・バートレットのドライブで選手権に参戦。しかしモンツァでの初戦を終えてアンドリーソンとバートレットが仲違いし、クルマの所有権を巡って法廷闘争を繰り広げた。以後、国際レベルのレースには出ていない。

第7位 ノーマM6


ノーマの共同創設者であるノルベルト・サントスが、航空機メーカーのアエロスパシアルの協力を得てモノコックを開発。エンジンは当初計画のコスワースに換えて、ガイ・ネグロがF1用に設計したMGNと呼ばれるW型12気筒を搭載する。1990年のル・マンに登場して車検は通ったものの、エンジンが始動せず、パドックにとどまったままゲームオーバーとなった。

第6位 イソリア


イソリアはフランス人ドライバーのジャン-クロード・フェラランが、古いシェブロンB36をベースに作った格安C2カーである。85年のスパでデビューしたが、決勝は1周走っただけ。次戦のブランズハッチでは137周まで行ったがシフト・リンケージが壊れてリタイヤした。年代物のBMW製F2用4気筒を積んでいたが、翌86年はコスワースDFVに換装。第8戦のスパで一時クラス4位を走ったものの、オイルポンプのトラブルで戦列を離れた。