2012年2月、訪米した中国の習近平副主席は、ロサンゼルスのAntonio Villaraigosa市長とカリフォルニア州Jerry Brown知事とMBAバスケットボールの試合を観戦。役職はすべて当時(Kevork Djansezian/Getty Images)

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 4月6日と7日に、米国で習近平国家主席とトランプ大統領の首脳会談が行われた。習主席にとって今回の訪米は、副主席だった5年前から数えて5回目となったが、実は過去の4回の訪米時期の前後には、いずれも政権内部に大きな動きがあった。

1.12年2月の訪米後 「王立軍事件」をきっかけに薄熙来が失脚

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 12年2月6日、重慶市副市長で公安局局長でもあった王立軍が、成都の米国総領事館に亡命を求めて駆け込むという、いわゆる「王立軍亡命未遂事件」が起きた。習副主席(当時)が訪米したのはその直後の2月13日から16日にかけて。

 米メディアのワシントン・フリービーコンは、米国へ亡命する見返りにと王立軍が米領事館に渡した機密書類の中に、薄熙来と周永康によるクーデター計画の証拠が含まれており、その年の11月に開催予定の十八大で中国共産党総書記に就任する予定だった習主席を失脚させることを画策していたと報じている。

 この訪米期間中、バイデン米副大統領(当時)の私邸に習副主席が訪問した際、クーデターの証拠が示され、薄熙来を逮捕することについて、習副主席に助言したと言われている。

 日本のメディアは、薄熙来を失脚させる決め手となったのは、習主席の投じた一票だったと報じている。2月16日に行われた政治局常委会の席で、王立軍の上司である薄熙来の責任を追及すべきかどうかについて、常委の意見が2つに割れていた。胡錦濤、温家宝、李克強、賀国強の常委4人は、薄熙来の責任を追及すべきと主張し、江沢民派の呉邦国、賈慶林、李長春、周永康の4人は、薄熙来擁護の立場に回っていた。

 だがそこで、米国でクーデター計画のあったことを知らされたばかりの習主席が前者に同意したため、薄熙来に対する責任追及が決定した。

 それから約1か月後の3月15日、両会が閉幕した翌日に、薄熙来は重慶市委書記を解任された。4月には中央委員会と政治局委員の職務が10日間停止され、当局による取り調べが行われている。

 薄熙来と周永康によるクーデターは、法輪功迫害政策や「臓器狩り」に対する責任の追及から逃れようとしていた江派により画策された。計画の首謀者は江沢民で、曽慶紅が具体的な方法を立案したとみられている。

 王立軍が米国領事館職員に渡したとされる機密資料の中には、党上層部の汚職を示す証拠や、薄熙来と周永康のクーデター計画に関する資料のほか、「臓器狩り」に関する内部資料を含む、法輪功迫害関連の大量の資料が含まれていたと言われている。

(つづく)

(翻訳編集・島津彰浩)