環球時報のコメンテーターである単仁平氏が、「現代太極拳の達人はタイソンに勝たねばならないのか」と題する文章を寄せた。写真は太極拳。

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環球時報のコメンテーターである単仁平氏が、「現代太極拳の達人はタイソンに勝たねばならないのか」と題する文章を寄せた。

中国の「格闘狂人」と呼ばれる徐暁冬さんが、「雷公太極」と名乗る太極拳の達人である雷雷さんを20秒足らずで打ち負かした動画が中国のネットで話題になった。「中国武術は無用の長物だ」とまで語る声もあり、中国武術を罵倒する掲示板スレッドまで現れた。中国武術をめぐる議論が激しさを増す中で、「中国独特の神秘主義が民族的悲哀と混ざり合った時、中国武術をめぐる想念は霍元甲やイップ・マン(葉問)などの神話を作り出した」と指摘する文章が反響を呼んだ。

「太極拳の達人はタイソンに勝てるか」という疑問にはこう答えるしかない――太極拳の選手にはタイソンのようにがっちりした体格の人が少ないから、タイソンに勝てる人はまれにしかいない。だが、もしタイソンのような体格を持った人が太極拳を修めているのなら、勝敗は分からないだろう。

中国武術は、その起源を独特の歴史的な環境に求めることができる。武器の開発が進まず、肉体が最大の武器だった「冷兵器時代」だ。中国社会は神秘主義に満ちあふれ、あらゆる武術の流派が登場した。武術は「水滸伝の世界」で重要な意義を持つ。武術の流行は中国社会が無秩序に混乱を極めていたことの裏返しでもあった。だが、あらゆる武術の流派が登場したことは、そうした世界に秩序をもたらしたとも言える。弱肉強食の秩序ではあるが、ないよりはましだからだ。

中国の武侠小説は武術を神格化する。それは武術の枠を超えて、精神性までも具備するに至る。このような事例は、世界のあらゆる文化に存在している。それらに共通するのは「忠義」と「勧善懲悪」を掲げる世界観だ。これらは科学的な現代社会にも通用する価値観だと言うことができるだろう。

しかし、現代社会は武術が盛んになった往時とは違う。武術を用いる機会が皆無になった今日では、武術の退化が起きた。武術の変化は二つの方向に分かれる。一方は格闘技へ、もう一方は心身を鍛練する修身の術だ。中国の武術愛好家たちは、後者を選ぶのが大半だ。

「試合で勝負を決める」という昔からの考え方の影響を受けて、「中国武術大師VSマイク・タイソン、武術大師が勝てるのか」という問いが出てきた。だが、荒唐無稽に思われるこの問いの中にも道理がある。

中国武術界は、今では武術の実際的な有用性が衰えるようになったことを認識した上で、流派にこだわらない「散打」という格闘技を作り出した。だが、散打はテレビコマーシャルの宣伝や長い歴史もなく、オリンピックで戦われるさまざまな格闘技に圧倒されている。そのため、必ずしも将来が明るいとは限らない。

今日のいわゆる「武術大師」には、お金をだまし取るための詐欺大師が存在する。これは武術界特有のものではなく、中国社会全体の縮図に過ぎない。武術界の詐欺師を摘発することはぜひとも進めていかなければならないが、中国武術そのものが腐敗しているわけではない。少数の詐欺師の存在を理由として、太極拳や少林寺拳法などの中国武術の全てを偽物武術だと咎めるのは行き過ぎだ。

太極拳は中国社会の隅々にまで広がっている。大衆の関心を集めるため、目立つように試合で勝負を決めるというやり方は、太極拳が持っている元来の文化にそぐわない。

今日、太極拳はラジオ体操のように心身を鍛練するためのエクササイズとして定着しつつあり、一方では伝統文化として尊重されてもいる。伝統文化の尊重は、歴史を通して今を生きる世代の自尊心と自己肯定感を満たすことにも繋がっていく。「イップ・マン」のような武術家の映画とその物語が今日に伝わっているのも悪くはないだろう。(提供/環球網・編集/インナ、黄テイ)