ただ褒めさえすればいいってもんじゃない。


「子供や部下は褒めて育てるべきだ、そうでないと意欲を失ってしまう」という意見と「褒めたらつけあがってちっとも動かなくなるから、褒めるべきではない」という意見がある。

 真っ向から矛盾して聞こえるが、私はどちらの意見も半分正しいと考えている。そして、残り半分を誤るから、望ましくない結果(つけあがったり意欲を失ったり)になるのだと考えている。

 褒める場合は、褒める「場所」が極めて大切になってくる。それは、拙著『自分の頭で考えて動く部下の育て方』(文響社)でも指摘したことだが、「その人の“外側”ではなく“内側”を褒める」ということに注意が必要だ。

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“外側”だけを褒めても・・・

 たとえば、子供がテストで100点を取ってきたとする。

 そこで「100点! すごいね、えらいね、やればできるんじゃん!」と褒めたとする。

 すると、次のうちのどちらかの状態に陥る。

「僕はやればできる」というわりには努力をしなくなり、「俺はまだ本気出してないだけ、出せばすごい」と言い続けてやろうとしない。つまり「つけあがった」状態になる。

 あるいは、褒めても励ましても「うん・・・うん・・・」と気の進まないような、気重そうな返事が返ってくるばかりで、意欲を失った状態になってしまう。

 これはなぜだろうか? それはその子供の「外側」を褒めてしまったからだ。

 テストで100点を取ったことは、その子にとって「外側」に起きた結果に過ぎない。そして外側で起きたことというのは、自分ではどうしようもない。

 たとえばプロ野球選手でも、たまたま4割の打率に到達したことがあったとしても、それを持続するのは困難だ。

 営業成績でトップになったとしても、翌月以降も同じようにトップで居続けることができるのかは微妙だ。

 なぜなら、その人にもどうしようもない外側の要因も絡まって、その人自身の努力ではいかんともしがたい部分が、「結果」というものにはつきまとうからだ。

 なのに結果という「外側」だけ褒められると、「また同じ結果を出せと言うのか」というプレッシャーとして感じてしまう。「今回はたまたまよい結果が出たけれど、同じ結果を出せるとは限らない。どうしよう?」という戸惑いが生まれる。

 すると、プレッシャーに押しつぶされて意欲を失ってしまうか、「逃避」することでなんとか自分の心を守ろうとするしかなくなる。

「逃避」とは、「俺は本気を出せばすごい、まだ本気を出していないだけ」という論理に逃げ込むことだ。

 この論理に逃げ込めば、かつての成果を自分の優秀さの証拠として提示することもできるし、「やるときゃやるけど、今はやらない」という言い訳を正当化することもできる。

 かつての勲章をヨロイのように身にまとって、柔らかく傷つきやすい内面を守ろうとするのだ。

 こうなると「あなたはあれだけの結果を出したじゃないか、やればできる、だから頑張りなよ」と励まされれば励まされるほど、「そうさ、俺はやればできる。まだ本気出してないだけ」という言い訳に逃げ込もうとする。

 なぜなら、「もし次に頑張ってみてひどい結果しか出なかったら、本当は自分が無能であることがみんなに知られてしまい、前の成果は偶然でしかなかったことになるかもしれない」という不安、恐怖にとりつかれるからだ。

 そんな事態になるくらいなら、「俺は本気を出せばすごい」という可能性の中に生きて、そこから出ないようにした方がよい、という判断になる。

 実は、優等生が急に不登校になったり、優秀な社員が急に出社拒否になる事例の中には、このパターンが見受けられる。結果を求められるあまり、プレッシャーに押しつぶされて、意欲を失ってしまうのだ。

 あるいは褒められ過ぎてつけあがって、ちっとも働こうとしなくなる社員が現れるのは、やはり結果だけに着目される職場環境にいるために、最高の結果が出たところで「名誉ある撤退」をしてしまい、以後は可能性の中で生きる人になってしまうからだ。

 結果という「外側」を褒めると、実は褒められた側からしたらプレッシャーでしかない。つぶれるか、歪むか、どちらかになってしまうから、要注意だ。

“内側”を褒めるには

 では、「内側」を褒めるというのは、どうしたらよいのだろう?

 私の弟が作陶家なので、それを事例に考えてみよう。

 たとえば陶芸家に「ぐい飲みが3万円で売れるんですか! すごいですね!」と褒めたとしたら、その陶芸家は憮然とした顔をするか、なんとか失礼のないようにひきつった笑顔を見せるか、どちらかだろう。

 器の値段は作家にとって「結果」であり「外側」でしかない。そんなところを褒められても、ちっとも嬉しくない。

 しかし「きれいな赤! どうやったら出るんですか?」「この青いビードロ、きれいですね。どうしてこうなるんですか?」と質問すると、陶芸家は嬉しくなっていろいろ語り出すだろう。その赤、青を出すためにどんな工夫と努力を重ねたのか、それを披露する機会が得られたからだ。

 そこで「へえ、そんなに難しいことなんですか!」と言えば、ますます「この人は私の苦労をよく分かってくれる」と嬉しくなるだろう。次の作陶で考えている案を語り出してくれるかもしれない。

「それはぜひ見てみたいですねえ!」と応じれば、作家も次の作陶が楽しみになって、やる気が増すだろう。

 なぜか? 結果よりも、その結果を出すためにどんな努力や工夫を重ねたのか、その人の「内側」、つまり心の内面に起きた葛藤に気づいてくれたと感じるからだ。

 そしてそれを褒められたり追認されたりすると、「分かってくれた」と嬉しくなる。「私が重ねた努力や工夫は間違っていなかった」と意を強くする。また新たな努力と工夫を重ねよう、という意欲が湧いてくる。

 意欲が強まり、そこに努力と工夫が加わるならば、当然結果はついてくる。途中、失敗も起きるだろう。しかし意欲をもって努力、工夫を続ける人は、失敗さえも糧にし、次に活かすだろう。結果にとらわれているのではなく、努力、工夫こそが大切だと分かっているからだ。

「褒める」のならば、「その人の“外側”ではなく“内側”を褒める」必要がある、というのは、以上のような理由からだ。

驚き、面白がることが「意欲」を引き出す

 しかし、「褒める」という言葉を使う限り、どこを褒めたらよいのかという混乱がどうしても生じてしまう。それに人間は、ついつい外側の結果、つまり100点取ったとか営業成績がトップだったとか、「すごい結果」に目が行くので、それを褒めてしまいがちだ。そしてそれで失敗する。

 そこで私は「褒める」のではなく、「努力・工夫に驚き、面白がる」という表現を使うことにしている。

「そんなに努力されたんですか。そのときはつらかったでしょう」
「よくこんな工夫、思いつきましたね! 面白い!」

 そんな風に努力や工夫に驚かれ、面白がられると、人間は「次はどんな工夫をしてやろう」「やっぱり頑張った甲斐があったな。これからも頑張ろう」と、意欲が湧いてきたり勇気づけられたりする。

 次にはもっと努力し、工夫するだろう。驚き、面白がってくれることが、何よりの追認になり、勇気と意欲をかきたてるからだ。

 そう。大切なのは「意欲」だ。次々に現れる難題をどうクリアしていくか。それには、立ち向かう意欲と、なんとしても突破してやるという努力と、その努力を形にするための工夫が必要だ。

 意欲、努力、工夫。この3つの要素を兼ね備える人は、生涯進歩し続け、途中で失敗があっても再び立ち上がり、しかも失敗から何かを学びとって、次のステージへと進むだろう。

 近年、教育界で注目を集めている「GRIT(やり抜く力)」だ。

 それを部下に身につけてほしいなら、「努力、工夫に驚き、面白がる」ようにしてみよう。少しずつGRITが身につき、パフォーマンスがどんどん上がり、結果もついてくるだろう。

筆者:篠原 信