2004年、イングランド代表戦でゴールを決め、久保竜彦とハイタッチを交わす。日本代表でも魅せるプレーを連発した。(C)Getty Images

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 日本代表での活動も波が激しかった。
 
 ワールドカップには3度出場し、それぞれに深い思い出があるという。
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「初めてのワールドカップ(98年大会)。カズさんがまさかの落選をしたなかで11番を背負ったんですよね。とんでもないことをしたなって思いますよ。18歳で、まだあの頃はワールドカップの凄さが分かってなかったし、出たいとさえ思ってなかった。
 
 海外の選手と試合をすること自体がすごく特別な感じだったんで、その延長線でしかなかったんです。2002年になってようやくその凄さを実感しましたね。国中が応援してくれてたし、アドバンテージがかなりあって。チームとしてもまず1勝を挙げて、グループリーグも突破とスムーズで、波に乗って行けた。まあ終わり方は残念でしたけど」
 
 選手によって好き嫌いがはっきり分かれるトルシエ監督に対しては、「むっちゃ好きですよ、僕は。日本代表のなかで一番好きな監督かなぁ。あの緊張感が良かったし、アメとムチの使い分けが巧かった」と評した。
 
 そして、脂の乗り切った27歳で迎えたのが、2006年のドイツ・ワールドカップ。失意のどん底に突き落とされた。
 
「最終予選のバーレーン戦の直前に大怪我をしたんですよね。かなりショックで、ワールドカップ本大会までの時間もあまりなかったから焦ってたんだけど、なんとかメンバーには選んでもらえた。
 
 で、初戦のオーストラリア戦。途中から出場して、そっから逆転負けですからね。ショックはそうとうなものだったし、僕のなかではいちばんデカい敗戦だった。そこを引きずっての2試合目(対クロアチア、0-0)、3試合目(対ブラジル、1-4)だったし。非常にいただけないワールドカップでしたね」
 2001年夏、小野は欧州へと旅立った。オランダの名門フェイエノールトへの移籍だ。だが当初、海外挑戦に関してはあまり乗り気ではなかったという。
 
「冬のトレーニングキャンプに1週間くらい参加させてもらった。1月だったかな。(ロッテルダムの)空は暗くてどんよりしてて、なにより寒い。サッカーはけっこう面白いなとは思ってたんですけど、それでも行かないかなぁと。
 
 でも帰って来てから話がどんどん進んで、夏の移籍が決まったんです。個人的には、高い意識さえ持っていれば日本国内にいても世界のトップレベルの選手に近づける、成長できると思ってた。だけど、実際に海外に行ってみて、あ、こういう環境にいないと気付けないことってあるんだなって感じましたね。
 
 自分が考えてた以上の違い。例えば、海外の選手特有の威圧感ってやっぱりあるんですよ。日本でやってるだけだと、いきなり対峙したときにどうしても圧倒される。でも日常的に周りがみんなそうだから、いずれなにも感じなくなる。そういうメンタル的な違いってのも感じましたね」
 
 才能に恵まれながら、志半ばで帰国を余儀なくされるサムライが後を絶たない。得てして最大の足枷となるのが、コミュニケーション能力の低さだ。
 
 わたしは当時、移籍した小野を追ってロッテルダムに乗り込んだ。そこで目の当たりにしたのは、ベルト・ファン・マルバイク監督やピエール・ファン・ホーイドンク、ヨン・ダール・トマソン、そして若き日のロビン・ファン・ペルシらと談笑しながら、チームの輪にしっかり食い込んでいるスキンヘッドの雄姿だった。
 
 オランダ語はおろか英語すらさして話せなかったはずだ。その意思伝達力は尋常ではない。
 
「どうやったらチームに溶け込めるかとか、いろんな部分を考えてましたね。サッカーにおいて言葉はいらない。ピッチに立ってなにをしたいのか、監督はなにを求めてるのか、仲間がどういうタイプなのか、左利きなのか、そういうのを全部自分のなかで整理する。そこさえうまく掴んじゃえば、普通にサッカーができるわけですよ。それがなにより大事。
 
 サッカーが終わったあとのコミュニケーションとかは、まあなんとかなる(笑)。ちゃんとサッカーがやれていればね」
 ヴァイッド・ハリルホジッチ監督率いる日本代表はいま、6大会連続のワールドカップ出場を目ざし、アジア最終予選を戦っている。
 
 偉大なる先達は、後輩たちのプレーをどう見ているのだろうか。
 
「試合はけっこう観ますよ。アジアでは勝って当たり前というプレッシャーはいまも昔も変わらないでしょう。でも今回の最終予選を観てて感じるのは、アジアのチームのレベルの高さ。徐々に徐々に精度が高くなってきてるし、戦術理解もあって、なにより巧い選手が多い。なかなか抜け出すのは簡単じゃないと思いますよ。僕らのときにはいなかった、オーストラリアもいるわけでね」

 トルシエやジーコがそうであったように、ハリルホジッチも結果が出なければ猛烈なバッシングに晒される。日本代表監督の宿命だが、選手たちはそんなとき、内心ではどう感じているのだろうか。
 
「結果を出すのが一番の薬であり特効薬。次の試合に勝てば気持ちも上がるし、ワールドカップにさえ出ちゃえば、バッシングなんてなかったみたいになっちゃうから。そういうのを黙らせるためにも、結果を出すだけ。大変だとは思いますけどね」
 
<♯4に続く>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※5月8日配信予定の次回は、同じアラフォー世代へのメッセージ、一番巧かったヤツ、そしてもっとも気になる「引退」のビジョンに迫ります。お見逃しなく!
 
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PROFILE
おの・しんじ/1979年9月27日生まれ、静岡県沼津市出身。小学校時代から天才少年と謳われ、13歳で年代別の日本代表に選ばれるなど異彩を放つ。清水商高時代はインターハイや全日本ユースでタイトルを獲得。1998年に鳴り物入りで浦和に入団し、そのシーズンのJリーグ新人王に輝く。99年のワールドユースで準優勝を飾ったが、その直後の大怪我で長期離脱。後遺症に苦しみ、翌年のシドニー五輪出場を逃がした。2001年夏からはフェイノールト(オランダ)に活躍の場を移し、UEFAカップ制覇など確かな足跡を残す。06年以降は浦和、ボーフム(ドイツ)、清水、ウェスタン・シドニー(オーストラリア)でプレー。そして14年春、札幌入団を果たした。04年のアテネ五輪にOA枠で出場し、ワールドカップは3度経験(98、02、06年)。国際Aマッチ通算/56試合・6得点。Jリーグ通算/209試合・72得点(うちJ1は180試合・63得点)。175臓76繊O型。データはすべて2017年4月20日現在。公式ブログは