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「ニュルブルクリンク(ドイツ)の北コース。パワフルなメルセデス・ベンツ300SLRの実力を解明するのにふさわしいコースはこれ以外に考えられません」クラシック&スポーツカーの分野で数多くの試乗を行ってきたベテラン・ジャーナリスト、ミック・ウォルシュは情熱的に語った。

誰もが黙る存在感

58年の歳月を経てもなお、超高性能レーシング・マシンとして一世を風靡したメルセデス・ベンツ300SLRは、ドイツ国民の心を高揚させる。その日の朝、ニュルブルクリンク・サーキットは曇りで、外は肌寒かった。1950年代における究極のレーシング・マシンであったメルセデス・ベンツ300SLRの登場である。58年前に300SLRをニュルブルクリンクに運び、その当時、レーシング・マシンに負けない人気を誇ったとされるライトブルー、オープン・デッキの高速トランスポーターほど魅惑的ではないものの、やはりメルセデス・ベンツの巨大なトランスポーターの後部で戒めを解かれ、リフトに載せられる。周囲の人々は、畏敬の念を込め、その光景を静かに見守った。1955年5月、ニュルブルクリンクで行われたADACアイフェル・レースで、ミッレ・ミリアで優勝した300SLRチームが、またも勝利を飾る光景を数千もの観衆が目にした。今回優勝したのは、F1で5回のワールドチャンピオンに輝き、「エル・マエストロ」と呼ばれたレーシング界の巨星ファン・マヌエル・ファンジオであった。観衆はまた、ほぼ2倍の年齢のベテラン・ドライバーであった同じチームのファンジオを追う英国出身の25歳の天才ドライバーで、後に「無冠の帝王」と呼ばれるスターリング・モスの走りに歓声を上げた。メルセデス陣営としては、欲を言えば、勝利パレードの先頭にはドイツ人のドライバーに立って欲しかったかもしれない。しかし、ハンス・ヘルマンがモナコGPのクラッシュ事故から回復途上にあったため、メディアとしても、シルバーで斬新なスタイルの300SLRプロトタイプのドライバーとして、新進気鋭の若き英国人ドライバー、スターリング・モスと老練なファン・マヌエル・ファンジオ以上の組み合わせ以上は想像できなかった。

SLRを横から眺めると、高くて長いヘッド・フェアリングが特徴的だ。


ダイムラー・ベンツ社は、今でも、この華麗なスペース・フレーム構造の300SLRの取材や試乗をめったに許可しない。そのことも、300SLRファンにとって最大限の効果を上げている。曲線美溢れる個性的な300SLRがパドックに姿を現すと、サーキットが静まり返った。滑らかで引き締まったスタイルのジャガーD-タイプやマセラティ300Sのような意味での美しさではないものの、300SLRには、大きく開いたフロント・グリル、直線的なサイド、そして眉毛を思わせる特徴的なホイール・アーチ上のフィンも相まって圧倒的かつ重厚な存在感が感じられる。

3ℓの排気量から345psを発生

50年代のレーシング・マシンには、単なるチーム・カラーの枠を超えた独特の愛国的な香りがあった。その上、300SLRの明確で整ったデザインは、イタリア車や英国車のものとは対照的だ。側面、コクピットのすぐ手前にある2つのエア・ベントから突き出たツイン・エグゾースト・パイプ、跳ね上げ式の長いリア・デッキ一体型ヘッド・レスト、そして右側にオフセットされ、エンジン・ルームに給気するエア・インテークの隆起など、瞬時にわかる外見的特徴が、300SLRの戦慄すべき戦闘力をさらに引き立てている。サイド・ベントから矢のように水平に突き出すクロム・メッキされたエグゾースト・パイプを備え、流れるようなフォルムは、確かに量産モデルの300SLをも想起させるものの、その超軽量マグネシウム合金のボディに隠されたSLRのドライブトレインは、W196から発展し、F1で培われた最先端の自動車エンジニアリング技術の粋を集めたものである。アルファ・ロメオ8C、ブガッティ・タイプ55、そしてタルボ・ラーゴなど、多くの偉大なレーシング・マシンと同様、300SLRは、基本的には2シーターのGPカーであった。

ボンネット高を下げるために直列8気筒を傾けて搭載した。大きなプレナム室に注目。


ドライブトレインは、W196の直列8気筒デスモドロミック式バルブ開閉制御ユニットを忠実に踏襲する一方、4気筒のブロック2個は、鋼材ではなく、アルミ合金シルミンで鋳造されている。ボア・ストロークが78x78mmのスクエアな2979ccエンジンを傾けてシャーシに搭載し、オルタネータやスターターなど、GTレーシング・マシンに不可欠な装備も備えている。燃料の種類やレース・コンディションに左右されるとはいえ、ボッシュの手になるフューエル・インジェクションにより、最高出力は、市販ガソリンで306ps/7500rpm、アルコール燃料では345psにも達する。ギアボックスはZF製でブレーキは大口径のインボード式ドラムだ。これらは全て、当時の最新技術の結晶であった。1954年に、フェラーリの地元モンツァ・サーキット(イタリア)で行った初期の走行テストで1シーターのW196よりも3秒速いことが既にわかっていた。その段階で、300SLRをレースに投入することも可能であったのかもしれない。しかし、経営陣とチーム監督のアルフレート・ノイバウアーは、GPレースへの復帰に的を絞った方が良いと判断した。

デビュー戦、ミッレ・ミリアで勝利

デビューを飾るレースとして選ばれたミッレ・ミリアでは、チーム・メンバーたちの溢れる自信を裏付ける華々しい戦果を挙げた。メルセデス・チームは1600kmもの距離を走る過酷な耐久レースのミッレ・ミリアに優勝した唯一の非イタリア・チームとして大いに脚光を浴びた。大胆不敵な髭面のナビゲーター、デニス・ジェンキンソン、愛称「ジェンクス」にアシストされたモスは、以後破られることのないペースで堂々と優勝した。それから3週間後に、ADACアイフェル・レースで活躍するSLRの勇姿を大観衆は目にする。ファンジオは、モスよりもニュルブルクリンクを走った経験が豊富だったため、ミッレ・ミリアで使用したクルマ(3号車)に乗り、プロトタイプ(W196S-1)に乗るモスのタイムよりも6秒速い10分強のタイムでポールポジションを取った。カール・クリングは、さらに18.2秒遅れ、その後をフェラーリ・モンツァの一団とジャガーD-タイプで奮闘するエキュリー・エコッセ・チームが猛追した。天候が心配される中、モスが北コースのラップ・タイムを縮め、ファンジオをリードする133.6km/h(10分10.8秒)のラップ・タイムを記録した。最終的に300SLRが10周レースを制したが、あるいはチーム命令だったのか、最後の周回で、アルゼンチン出身のファンジオが首位に返り咲き、モスよりもわずかコンマ1秒早くゴール・インした。その後、ドイツのファンは、SLRがドイツ国内でレースする姿を二度と目にすることはなかったものの、モスは、アストン マーティンやマセラティに乗って3勝し、ニュルブルクリンクの大スターになった。

SLRのフェアリングは単座にも複座にも対応した。


1955年当時であれば、人々は、オープニング・ラップで他のチームを従えるかのように疾走する3台のSLRの、戦闘機が強襲する時のような爆音をサーキット中で耳にし、胸を躍らせただろう。今回のテストでは、最初にエンジンをかけるだけでもドキドキしてしまった。サイドから突き出たツイン・エグゾースト・パイプの奏でるサウンドが、間違いなくクビッデルバッハ(丘状になっている直線区間。頂上でジャンプ)まで響き渡り、その音質に魅了され、さらに多くのギャラリーが集まってきた。暖機運転の間はボンネットを開けていたため、大音響のきしるような音に加え、SLRのエキゾチックな心臓部から聞こえるローラー・ベアリング、ギア・トレイン、そしてデスモドロミック式バルブ開閉制御ユニットのバッキング・スコアのすべてが絶妙に融け合い、まさしくワーグナーの合唱を奏でた。

コクピットに滑り込む

ドアは、幅の広いシルの上をヒンジで上下に開閉し、クルマに乗り込む際は、まずタータン・チェックのシートを足で踏みしめ、その後で一風変わったレイアウトのフットウェルに足を滑り込ませる。オフセットされた幅の広いトランスミッションを大きく跨ぐ姿勢となり、左足で重いクラッチを操作し、右足で隣り合うように並ぶアクセルとブレーキを操作する。W196とは違い、アクセルは右端にある。モスは、センター寄りにあるW196のアクセル位置にどうしても馴染めなかったため、300SLRのアクセル位置にホッとしたという。左ハンドルは、50年代のレーシング・マシンには珍しく、4本ステーのエレガントな着脱式ステアリング・ホイールを所定の位置に固定すると、木製のリムの仰角はかなり大きく、思い切って腕を伸ばす必要があった。考え抜かれたコクピットだけあって、シートは、背面がリアの車軸に近い位置にあり、十分なフット・スペースが確保され、高めのシルによって上半身の保護も十分である。ドリンク・ホルダーさえ付いている。

運転席から見た300SLRは、ライバルであったフェラーリ・モンツァ、マセラティ300Sまたはアストン マーティンDB3Sよりも大きく感じられる。左右が盛り上がり、車体の先端を把み難くしている広大なボンネット越しの眺めも、こうした感覚を強めている。メーター類はベーシックなものであり、中央にあるタコメーターの目盛りは11000rpmまで。左右にはタコ・メーターより小さ目の油圧計と水温計が配置されている。メーター・パネルの下部には、ランプ、燃料ポンプ、そしてチョークを含むスイッチ類が1列にまとまっており、2つの赤い警告灯がオイル・レベル他を報せてくれる。また、大きなステアリング・ホイールの中央には、エグゾースト・ノイズのうるさいSLRに必要なクラクション・ボタンがある。W196で1シーズン戦ったモスとファンジオにとって、オフセットされた駆動系を足でまたぐレイアウトにそれほど違和感はなかったに違いないが、筆者には馴染めず、そのせいで運転席が狭く感じた。ロール紙に記したペース・ノートを小箱の中で巻き取っていたジェンクスは、かなり窮屈だったに違いない。

今日は気温が低いため、エンジンが温まり、油温計の読みが上昇するまで少し時間がかかったものの、コクピットによじ登る時は既に暖気は終了していた。偉大なマシンのエンジンを始動する時はいつも胸が高鳴る。そんなわけで、SLRのエンジンを再始動する際はワクワクした。キーを押し込むとポンプが始動し、回すとマグネトーが通電する。いよいよ親指でスターター・ボタンを押す時だ。暖機運転の音を聞いていた後でも、SLRのドラマチックな始動音にはやはり気分が高揚する。アクセルに力を加えると、それに的確に反応する形で回転数が上がり、右側のシルのさらに外側からエグゾースト・ノイズが響く。

ドイツのZF製5段変速機の性能を余すとこなく引き出すための精密なシフト・レバー。


6段のギア・ゲートと、それから伸びるスチール製の細身のシフト・レバーは、右手操作とも相まって、少し練習が必要だ。後方から前方へ、また最初は内側で前方へというシフト・パターンに最初は戸惑ったものの、2速と3速のラインに寄せる強力なスプリングのおかげでシフト操作のコツを掴むまでそう時間はかからなかった。ギアを操作する前に、合金製のシフトノブの中央にあるボタンを押す必要がある。シフト・ダウンする場合、3速よりも5速に入りやすいと注意された。動作が大きめで正確さを要するものの、シフト操作は軽く、滑らかだ。ただし、出だしでスリッピングを避けるには、重いクラッチの操作に細心の注意を払う必要がある。トルクのピークが5620rpmであるため、D-タイプや300Sほど瞬時には反応しないものの、4000rpmを超えたあたりから驚くほどのパワーを発揮する。

ただ単に数値だけを比べるのなら、先進的なエンジンやサスペンションの点で、確かに現代のレーシング・マシンの方が有利だ。だからSLRの名誉のためには、デモンストレーション走行で時にニュースの見出しを飾る程度の走りがちょうど良いのかもしれない。重量が830kgしかなく、オープン・タイプの方が軽量で身軽なため、モーター・ジャーナリスト、ゴードン・ウィルキンスが300SLRクーペで計測した値(0〜97km/h加速6.8秒、0〜160km/h加速13.6秒)よりも速く感じる。エンジンは、タービンのようにスムーズにパワーを生み、このドイツが生んだ最高傑作のクルマに当然のごとく期待される特性として最高度の剛性を備え、その驚くような轟音が確かに速く感じさせる。

いよいよ、300SLRに乗る

(プレイステーションで数えきれないほどのセッションをこなした上に)北コースを20周ほど周回し終えた頃、筆者はプレッシャーのかかるテスト走行にもようやく慣れ、この限りなく貴重な300SLRを加速させる自信がついた。リアにスイング・アクスル式サスペンション(幸いなことにロー・ピボット・タイプ)を備えながらも、300SLRの一見クセのない挙動が当初の不安を払拭する助けになった。ハンドリングはとても快適な印象だ。タイトなコーナーに進入する際は、わずかにアンダーステアになるものの、トラクションの良さと直進性のおかげでコーナーを加速して抜ける時に簡単に修正できる。300SLRなら、測ったように正確なライン取りが可能だ。当時の英雄たちがおそろしいドリフトに身を委ねている写真など存在しない。ステアリングも素晴らしく、低速域では軽く感じる。速度が上がるほど、ダイレクトで精密な挙動がドライバーに語りかけてくる。

プレナム室に吸気する大口径インテーク。


この妥協のない性能、そしてレスポンスに優れた性質、これに計算されたドライビングが加われば、モスとジェンクスがミッレ・ミリアにおいて10時間7分48秒という驚異的なタイムでブレシアからローマまで往復したことも驚くには当たらない。北コース最悪のバンプを越える時でさえ、わりと素直に反応するトーション・バー・スプリングとテレスコピック・ダンパーがドライバーを保護してくれる。カルッセル(特殊な舗装のバンクが付いた左ヘアピン。クルマをバンクに引っ掛ける感じで曲がる)を曲がる時は、コンクリート・バンクの微細な凹凸のすべてが伝わり、極めてタイトなコーナーをバックエンドが抜けて行く。その際も、GT40など、最高級の耐久レーシング・マシンと同様、タフなSLRは常にドライバーの頼もしい味方だ。筆者は回転数の上限を6000rpmに設定していたが、それでも直線区間ならトップギアでおよそ208km/hだ。スタート・ラインまで2キロという近さのおかげで、この限りなく貴重なマシンを安心して踏むことができる。高速域では、厚手の風防がドライバーを保護する。300SLRは、見事な高速安定性を示し、ノーズが浮き上がる兆しさえない。55年シーズンの輝かしい結果から見て、300SLRは、このシーズン最速のクルマだったと見られるものの、ル・マン24時間レースでは、スタートで、フェラーリ121LMに乗ったエウジェニオ・カステロッティに後れを取った。

クラッチと同様、ブレーキもかなりの力を込めて踏む必要があり、最初はあまりレスポンスが良くない。SLRの最終仕様では、巨大なドラム・ブレーキをアウトボードにしたので、インボード式ドラム・ブレーキがボディ内にあったときのように、粉塵がフィルタを通り抜けてコクピットに侵入し、ドライバーの顔が真黒になるということだけはなくなった。メルセデス・チームは、ドラムを冷却するためにありとあらゆる方法を試みた。極限まで幅の広いドラムに巨大な放熱フィンをつけ、一部のレースについては、ブレーキがロックし始めると、ドライバーがコクピットからブレーキ内部にオイルを注入する仕組みも採用した。重いペダルに慣れるにつれ、微妙なレスポンスが感じ取れるようになり、急ブレーキをかけてもロックしなくなる。設計責任者であるルドルフ・ウーレンハウトは、ドラム・ブレーキ特有の問題点を解決し、ル・マンにおいてジャガーの先進的だが課題の多いディスク・ブレーキに対抗するために油圧作動するエア・ブレーキを開発した。筆者が最近モスから聞いた話では、高速でコーナーに接近する際、このエア・ブレーキを使えば、かなりのダウンフォースが得られたという。ジャガーD-タイプは、アイフェル・レースで、2台ともブレーキングに悩まされ、同じコーナーでペダルを床につくまで踏み抜いた挙げ句にコース・アウトした。

300SLRは、直線で最速のクルマではなかったとしても、そのバランスの取れたハンドリングや先進的な機構に並ぶクルマはなかった。メジャーな国際的タイトルであるル・マンにおいてフェラーリ陣営からヨーロッパでのデビューを飾ったアメリカ人名ドライバー、ジョン・フィッチは、当時のメルセデス・チームの印象を次のように生き生きと語った。「300SLRには、ある種畏敬の念を感じていました。300SLRに乗ったモスが後方からどんどん追い上げ、ついに追い抜かれた時のことが今も記憶に残っています」、こう彼は語った。「4.4ℓエンジンのフェラーリは、直線では300SLRに勝るため、何周かは後を追いましたが、300SLRの素晴らしく正確な挙動に特に感銘を受けました。300SLRは、レーシング・マシンには珍しいオールマイティなクルマではないかと感じたものです」。

ル・マンの悲劇

完成したSLR9台(10台目は完成していない)のうち8台が過酷なレースを生き伸びた。6号車は、55年のル・マンにおけるピエール・ルヴェーの悲劇的な事故で全損した。この事故は、モータースポーツ史上最悪の惨事として現在も記憶されている。アイフェル・レースでの勝利は、その13日後にフランスで行われたル・マンの大惨事と鮮やかなコントラストをなしている。陰惨なクラッシュ事故では、フランス人ドライバー、ルヴェーのクルマがランス・マックリンのオースティン・ヒーリー100Sに追突して宙を舞い、観客席のそばに落下して爆発したため、部品が観客席に降り注ぎ、83名の命を奪った。惨劇が起きたのは午後6時28分だが、モス、そして同じチームのファンジオが暗闇の中、ライバル・チームよりも優に2周先行していたこともあって、本社がレースから撤退するようノイバウアー監督に指示した頃には午前2時になっていた。

ミッレ・ミリアではトランクにスペア・タイヤを2本積んだ。


クラッシュ事故に直接的責任がないことは明らかであったものの、300SLRの珍しいマグネシウム合金や危険かつ違法な燃料を使用していたことが爆発の規模を大きくしたのではないかと疑う人々もおり、メルセデス・チームは激しい非難にさらされた。ノイバウアー監督は、このような嫌疑に対し、適法な燃料を使っていた明白な証拠、マグネシウムが衝撃を与えても簡単には爆発しないこと、SLRがレースの他のクルマよりも高い強度と剛性を備えていたことなどを示し、一つずつ反論していった。合理的に考えれば、サーキットの安全対策の不備、ジャガーのリーダーであったマイク・ホーソーンの無謀な運転、そしてルヴェーがSLRに慣れていなかったことの方が要因としては重要だった。ル・マンの事故に先立ち、メルセデス陣営は、既に年末をもってレース活動から撤退することを発表しており、この惨事は、経営陣の決意をいよいよ固めさせる結果になった。

ル・マン撤退後の300SLR

次の遠征は、ほぼ2ヶ月後、8月7日のスウェーデンGPだった。そこでも、ファンジオとモスが、それぞれ、いずれもル・マンで使ったエア・ブレーキを装備した3号車、4号車に乗り、レースの花形となった。その一方で、カール・クリングは、ミッレ・ミリアで使い、修理を終えた5号車に乗った。クリスチャンスタードの幅の狭いサーキットで息をのむような高速レースが繰り広げられた。SLRが240km/hで駆け抜けていく。ル・マンでと同様、ここでもエア・ブレーキが威力を発揮し、コーナーに進入する際に他のクルマよりもかなり有利になった。モスは、プラクティスでは最速だった。さらに、モスもファンジオも、ウーレンハウトがはるばる本社のあるシュトゥットガルトから運転してきたSLRのクーペ・タイプを試した。SLRクーペも、オープン・タイプに遜色のないラップ・タイムを叩き出した。その時のエピソードとして、ノイバウアーがパスを忘れたため、ピットに入るのをマーシャル(レース委員)に拒否されるという一幕があった。メルセデス・チームとしては、マーシャルの態度を軟化させるために、ドイツ大使に頼らざるを得なかったため、これがちょっとした外交的事件に発展した。ファンジオとモスは、ル・マン・スタイルのスタートからスピードに乗ったが、2人の1-2フォーメーションが非常に近接していたため、ファンジオの跳ね上げた石がモスのゴーグルに激突し、モスが目を切ったほどだった。モスは、ケガをしたにもかかわらず、エア・ブレーキを巧みに操り、尊敬するチーム・リーダー、ファンジオの後方わずか0.3秒のポジションをキープした。

アイフェル・レースの勝利者はファン・マヌエル・ファンジオだったが、最速のラップ・タイムを叩き出したのはモスだった。


9月17日に行われ、北アイルランドのRACツーリスト・トロフィーでも、メルセデス・チームの快進撃は続き、モスとナビゲーター、フィッチが優勝した。モスは90秒先行していたが、コース・アウトした挙句、ヘッジ(垣根)を強打し、ボディが引き裂かれた後、パンクしたタイヤでピットインしなければならなかった。ジャガーのホーソーンに追い抜かれたものの、雨が降り始めた後で、モスが主導権を取り戻した。モスは、メルセデス勢の先頭に立ち、5号車に乗るファンジオ/クリング組が2位、ウェールズのフォン・トリップス/アンドレ・サイモン組が3位に輝き、メルセデス勢が3位までを独占した。このRACツーリスト・トロフィーでは、3名のドライバーが死亡し、また有名なフランス人ドライバー、ジャン・ベーラが重傷を負った。こうした事故が、メルセデス勢の快挙に影を落としているのは残念だ。

1955年のマニュファクチャラーズ選手権を獲得

GPにおける栄冠に匹敵するマニュファクチャラーズ選手権で優勝できる可能性が出てきたことから、メルセデス・チームは、国際的なスポーツカー・レースとして最も歴史のあるタルガ・フローリオで、3台のクルマをシチリア島に送った。このレースでも、モス/ピーター・コリンズ組がペースの主導権を握り、ピーター・コリンズが、ナビゲーターとして曲がりくねった山岳コースを走る苦労を分かち合った。モスは、ピットからのスタンディング・スタートで始まるオープニング・ラップでラップレコードを達成した。しかし、この華麗な英国人ペアの猛攻は、ミッレ・ミリアの勝者モスがまたもやコース・アウトした時に、ほぼ暗転しかけた。泥の上で160km/hでスピンした挙げ句、岩に乗り上げてしまったからである。レースに復帰するため、最後は、耕地を横切り、地元の人々の力を借りてクルマを地面に降ろさなければならなかった。不運が続いたメルセデス陣営は、一時期1位も2位も譲り渡したものの、ドライバーがコリンズに代わると猛然と追い上げた。モスは、最後の交替後、コース・アウトを埋め合わせるように、再度、100km/hという圧倒的なラップ・タイムにより首位を奪回した。この英国人スーパースターのコンビは、9時間43分後、記録的な平均95.7km/hで優勝し、これに4分以上遅れる形でクリングと組んだファンジオが2位、デズモンド・ティタリントン/フィッチ組が4位につけた。

目の前を駆け抜けるファンジオ、モス、そしてクリングのエグソースト・ノートを想像して欲しい。


これによって、メルセデス・チームは、ブエノスアイレスやセブリングに出走せず、ル・マンから撤退していたにもかかわらず、フェラーリとわずか1点の差でマニュファクチャラーズ選手権をなんとか制した。不運に見舞われることの多かった55年シーズンの立役者は、紛れもなくモスであり、この時代最高のレーシング・マシンを駆り、3回優勝したことが、この結果に貢献した。その後、いかなるワークス・チームも、1シーズンのグランプリとスポーツカーレースの双方でこれだけの存在感を示した例はない。こうして、技術的に優れ、途方もなく速く、勇壮なエグゾストサウンドを轟かせる最高のレーシング・マシン、300SLRの色褪せることのない伝説が始まった。

メルセデス・ベンツ300SLR

■生産期間 1955年 
■生産台数 9台 
■車体構造 スペース・フレーム 
■エンジン形式 直列8気筒DOHCデスモドロミック2バルブ 2979cc 
■エンジン配置 フロント 
■駆動方式 後輪駆動 
■最高出力 310ps/7500rpm 
■変速機 5段M/T 
■全長 4350mm 
■全幅 1750mm 
■ホイールベース 2370mm 
■車両重量 830kg 
■サスペンション ダブル・ウィッシュボーン / スイング・アクスル 
■ステアリング パワーアシスト付きラック&ピニオン 
■ブレーキ インボード・ドラム + エア・ブレーキ