サッカー人生を懸けて岡山にやって来た川又だったが、シーズンが開幕してすぐに肉離れを発症してしまう。ぬかるんだピッチに足を取られたことによる、事故のような負傷だった。
 
 この時、ツイていたのは、前年から在籍し、川又とポジションを争っていたFWチアゴの調子が芳しくなく、絶対的な存在になり得ていなかったことだろう。負傷が癒えた川又はすぐにチャンスを与えられ、5節のモンテディオ山形戦で途中出場して戦列に復帰する。初ゴールが生まれたのは、その翌節だったのだ。
 
 待望のリーグ初ゴールは、川又にふたつの恩恵をもたらした。
 
 ひとつは指揮官からの信頼である。
 
 この試合以降、川又はほとんどすべてのゲームに先発し、3-4-2-1システムの1トップに君臨する。
 
 もうひとつは、ゴール感覚である。
 
 7節の松本山雅戦で連続ゴールを決めると、9節のガイナーレ鳥取戦でもゴールネットを揺らし、まるで憑き物が落ちたかのように量産体制に入る。
 
 GKの逆を突くような冷静なシュートもあれば、豪快なダイビングヘッドもある。左足、右足、頭と、バリエーション豊かに積み上げたこのシーズンのゴール数は、実に18にのぼった。
 
 自身のゴール集の映像を眺めながら、川又が懐かしそうに言う。
 
「徳島戦のゴールで感覚が蘇ったというか、気持ちが楽になって、リラックスしてシュートを打てるようになった。シュートも全然、強く打ってない。当てただけっていう感覚。それにゴールが決まる時って落ち着いているんですよ。無の境地っていう感じ」
 仲間のサポートも大きかった。
 
 3バックを敷く最終ラインは強固で、簡単にはゴールを許さない。その中央の竹田忠嗣、ボランチの千明聖典、仙石廉の3人が攻撃をビルドアップし、両ウイングバックは上下動を繰り返した。
 
 2シャドーのひとりである石原崇兆は川又の背後から飛び出し、もうひとりのキム・ミンキュンは豊富なアイデアで多くのチャンスを生み出した。
 
「俺は個人技でゴールを取れるタイプじゃない。仲間のサポートがあってこそ輝けるタイプだから、ブレイクできたのはチャンスを作ってくれたみんなのおかげ。なかでも、キム・ミンキュンはJ2でもトップクラスの選手でした。ボールを預ければ必ずリターンが来るし、俺にボールが入った時のサポートも抜群。すべてが良かった」
 
 忘れかけていたゴール感覚を取り戻したこの年、川又はストライカーとしての醍醐味を改めて味わっていた。
 
 それは、自分が決めるか否かがチームの勝敗を左右するという責任感であり、自身のゴールがファン・サポーターに熱狂をもたらすという快感である。
 
「お金を払ってスタジアムまで足を運んでくれる、遠く離れたアウェーまで駆けつけてくれる、そんな人たちが喜んでくれるのは嬉しいし、改めてプロは結果だなってしみじみと感じましたね。もともと、プロは結果がすべてだっていうのは、ブラジルに留学した時に感じていたことではあったんですけど……」
 
―――◆―――◆―――
 
 サンパウロ州2部リーグのチームに留学したのは2010年、プロ3年目の20歳の頃だった。
 
 そこは田舎町の小さなクラブで、練習場のピッチは凸凹だらけ、雑草も生えていた。チームバスには窓がなく、座席には穴が空いていた。
 
 自宅に冷房設備などもなく、風通しが悪いからベッドのシーツをはぐとカビだらけ。壁にはイモリが這っていた。
 
「街中に拳銃を持った人がいたり、薬か何かをやっていてぶっ飛んでいる人がいたり。そんな環境で、ブラジルの選手たちは家族を養うために戦っていた。そういうのを見て、日本人は恵まれているなって思ったし、正直、こんなところで生活したくないとも思った。結果を残して這い上がらないといけないなって」