全日空時代から横浜フリューゲルス一筋でプレーした前田治氏【写真:宇都宮徹壱】

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横浜Fのために引退も…消滅したクラブ

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【後編】(取材・文:宇都宮徹壱)

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(合併の白紙撤回を訴える)署名活動は、僕もやりましたよ。若い選手たちと一緒になって、当時新人だった遠藤(保仁)もいましたね。ただし「もう無理なんだろうな」って感じながら、署名を集めていましたね。会社は合併ありきで動いていましたし。

 僕自身は選手と違って、ジュニアユースの指導者という、どちらかというとクラブ側の立場になっていました。でもだからこそ、合併の話を聞いたときは「ふざけるなよ!」って思いましたね。

 僕はまだ(現役で)できたのに、クラブのために引退したんですよ。それなのに、そのフリューゲルスが無くなってしまうって、どういうことだと。その後、選手の次の移籍先がちらほら聞こえてくるようになりましたが、僕らは後回しですよね。

 まず選手、それからトップチームのコーチ、そのあとが育成のコーチですから。選手は移籍先でも結果を出せば、その後もプレーを続けることができます。でも育成のコーチというのは、はっきりした評価の指標なんかないんですよ。将来のプロ選手を育てる役割であるはずなのに、それに対する評価もなく、合併後の身分もどうなるかわからない状況が続きました。

 天皇杯は(99年)元日の国立も含めて、見ていませんね。いや、行こうかなとは思いましたよ。でも、とてもみんなと一緒に喜ぶ気持ちにはなれませんでした。

 むしろあの時は本当に「ふざけんな、フリューゲルス」とか「オレのサッカー人生を返してくれ」くらいの気持ちでいましたから。だからNHKの中継で済ませましたね。

 それでも新横浜の優勝報告会には行きましたよ。いちおうスタッフは全員参加ということになっていたので。祝勝会にも顔を出しましたし、みんな嬉しそうだったので良かったなとは思いました。けど、心の底から喜べない自分がいたのは確かです。

事務所の後片付けで切り刻まれたマスコット

 新横浜にあった、全日空スポーツの事務所の後片付けも、僕らスタッフの仕事でしたね。とび丸(フリューゲルスのマスコット)の着ぐるみを見つけた業者の人が「これ、どうします?」と聞いてきて、上の人が「もういらないです」って言ったものだから、ガーってカッターで切り刻んだんですよ。

 あれは失敗でしたね。無理してでも、僕がもらっておけばよかった。近所でイベントがあった時に、僕が着ぐるみに入って子供たちを喜ばせることもできたわけだし(笑)。

 幸い、とび丸の着ぐるみは3体あって、残りの2体は日本サッカーミュージアムと、フリューゲルスの企画運営をしていたファーストという会社が今でも保管しています。それ以外にもいろんなお宝グッズが出てきたので、僕が回収できたものは今も大切に倉庫で保管しています。

 フリューゲルスが吸収合併されてからは、F・マリノスのジュニアユースの指導者として、僕を含めて6人がスライドすることになりました。もともとマリノスは、新子安と追浜にジュニアユースがあって、僕がフリューゲルス時代に教えていた菅田は「横浜F・マリノスジュニアユース菅田」となりました。

 契約は2年間。ただし、合併した年に菅田だけセレクションがなかったんですね。2年経てば、子供たちは全員卒業していきます。そうなると菅田は自然消滅だし、僕らもクビになるわけですよ。

 僕の場合、それでも他のJクラブからコーチのオファーは来ていたんですよ。そしたらF・マリノスのほうから「前田くんはフリューゲルス時代から地元に人脈を築いてきたから、指導者ではなく地域密着のためのポストに就いてくれないか」と言われたんです。

 そういう道もありかなと思ったんですが、なかなか向こうから条件が出てこない。焦って上の人に確認したら「そんな話は聞いていない」ですよ。冗談じゃない。こっちは他からのオファーも断っているし、家族だっているんだ。横浜地方裁判所に訴状を提出しましたよ。こちらはちゃんとした証拠を残していたので、最終的には和解になりましたけど。

なぜフリューゲルスだけが消滅してしまったのか

 その間に横浜FCの奥寺さん(康彦=当時GM)にも会いに行きましたね。奥寺さんとは、ギリギリ代表で一緒だった時期があったので、いちおう面識はあったんです。

 フリューゲルスが消滅して新たに生まれたクラブだったし、僕にできることがあればと思ってお話させていただいたんです。そしたら奥寺さんから「前田くんはフリューゲルスの色が付きすぎているから」って言われましたね。要するに横浜FCというクラブは、フリューゲルスとは関係ないところでやっていく、ということですよ。

 でも「色が付きすぎている」わりには、メディアがフリューゲルスを取り上げる時、僕には声がかからないんですよね(苦笑)。損な役回りだなと。でもそれ以上に、フリューゲルス自体がものすごく損な役回りだったと思うんですよ。

「チームが消滅する、最後の最後まで戦い抜いた」ということで、今でもフリューゲルスの天皇杯優勝は美談として語られていますよね。でも僕自身は「それって違うんじゃないか」って思うんですよ。

(メインスポンサーである)佐藤工業が撤退を決めて、全日空が一社では支えきれないとなったときに、なぜそこですぐお手上げ状態になってしまったのか。新しいパートナーを探すとか、あるいは全日空だけでも支えられるような規模にダウンサイズするとか、なぜそういう判断ができなかったのか。

 エスパルスだってヴェルディだってベルマーレだって、親会社が撤退してもクラブは生き残りましたよね。なぜフリューゲルスだけが消滅してしまったのか、いまだに僕は納得できていません。

半ばタブーになっている「横浜フリューゲルス」という存在

 それ以上に残念に思うのが「横浜フリューゲルス」という存在が、半ばタブーになっていることですよね。少なくともJリーグは、フリューゲルスの名前が出るのを嫌がっている節があるように感じます。

 3年前、三ツ沢で波戸(康広)の引退試合が行われたんですが、『マリノスAll Stars vs 波戸Friends』だったんです。本当は『フリューゲルスAll Stars』にしたかったんですけど、Jリーグから許可が下りなかったんですよ。

 おそらくフリューゲルスの名前って、Jリーグからすると「汚点」なんでしょうね。天皇杯では都合がいいから当時の映像を流すけど、Jリーグとしては蒸し返してほしくない話題なんだと思いますよ。

 現役時代、一緒にやっていたヤツとは今でもたまに会います。アツとかモト(山口素弘)とか。でも、あまりフリューゲルスの話にはなりませんね。だって彼らにしてみれば、その後にプレーしたクラブのほうが思い出は多いだろうし。

 モトだったら、(名古屋)グランパス、アルビレックス(新潟)、横浜FC。アツにしても、F・マリノスからヴェルディに行って、ヴィッセル(神戸)、横浜FCですからね。むしろ、そっちのキャリアのほうを大事にしたいと思いますよ。僕の場合は、全日空も含めてフリューゲルスから始まって、フリューゲルスで終わっていますからね。そんな選手、他にいないと思いますよ。

今でもフリューゲルスは「すべて」

 今はたまにTVの解説をしたり、クリニックをやったりしながら、家内のフランダンス教室を手伝っています。現役時代はずっと支えてくれたから、今度はこっちが支える番ですよね。

 そうそう、JFAの『こころのプロジェクト』は始まって10年になるんですけど、そっちの活動はずっと続けさせていただいています。ただ、夢先生として子供たちの前に立ったときに、自分がどういう立場でここにいるのかを説明するのが難しい。

 横浜F・マリノスは知っていても、フリューゲルスというチームがあったことなんて、誰も知らないわけですよ。「Jリーグは最初10チームでスタートして、その中に横浜フリューゲルスというチームもあって」という説明もするんですけど。今は小学生の親御さんでも、もしかしたらうっすらした記憶しかないかもしれませんね。

 僕にとってのフリューゲルスですか? 今でもそうですけど「すべて」ですよね。それしかないです。ずっとここで暮らしてきたのも、フリューゲルスから離れられなかったからだと思います。

 いちおうOB会みたいなものがあるんですが、今も地元にいるのは僕くらいなので、みんなで集まろうとなったときには僕が音頭を取ることになります。08年に(合併決定から)10周年ということでパーティーをやったんですけど、60人くらいは集まったかな。

 ただ、あの時は現役の選手も多かったので、チーム事情で来られなかったOBもいたんですが。でも来年の20周年には、当時の若手もそれなりの年齢になっているので、純粋に再会を喜び合えるんじゃないかなって思います。

<文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

text by 宇都宮徹壱