「Thinkstock」より

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 北朝鮮による核ミサイル攻撃が、少しずつ現実味を帯びてきている。

 核兵器が爆発を起こすと、100万分の1秒後(ということは瞬時)にウランやプルトニウムが分裂反応を起こし、中性子線やガンマ線が放出される。10秒後には、爆発の衝撃波が半径3.7キロメートル四方に及び、最大風速は400メートル/秒以上になるという。3分後には「きのこ雲」が発生し、20分後には「黒い雨」が降り始める。

 核兵器が爆発した時点で放射線を浴びると、10秒後の爆風や熱に当たらなくても、誰しも致死に至る。しかし閃光や火球を見るや否や、まずやるべきことは、遮蔽物の陰に隠れることだ。そしてコンクリートの丈夫な建物や地下施設があれば、すぐそこに移動する必要がある。

 放射線の線量は7時間ごとに10分の1ずつ減っていくので、2日(49時間)後には約100分の1まで減少する。よって、建物や地下施設には最低2日間以上とどまり、出ていくなら3日を経過してからにするべきだ。地下施設やコンクリートビルのなかにいるときも、換気扇や窓は閉じてマスクをし、長袖・長ズボンを着用して、被曝を最小限にする必要がある。

 こうした行動をとるべき人は、爆心地から半径2.8キロメートル以内の人である。放射能の直接影響は、同距離以内とされているからだ。

 しかし、半径2.8キロメートルの内外にかかわらず、20分後には黒い雨が降り始めるのだから、同範囲外にいる人も口や鼻をタオルで覆い、雨ガッパで身体を防御し、手袋や帽子を着用して、黒い雨に含まれる放射性物質から、身を守る必要がある。

●玄米と自然塩の浄化作用

 たとえ、この窮地を凌いでも油断はならない。太平洋戦争において広島や長崎における原爆投下で助かった人でも、5年後くらいから白血病に罹患する人が増え、10年後以降、肺がん、胃がん、肝臓がんなどのがんが増えてきたからである。

 ここで参考としてエピソードを紹介する。

 1945年8月9日11時2分、長崎に原爆が投下され、7万人以上の尊い生命が奪われた。爆心地からたった1800メートルにあった聖フランシスコ病院には大勢の被爆者が押し寄せた。

 同病院の秋月辰一郎医師は、自らも被曝したが、気力を振り絞り、患者の治療に没頭された。秋月医師は地下壕に蓄積されていた玄米と味噌と塩で「塩辛い玄米のおにぎり」と「塩辛い味噌汁」をつくらせて、同病院の職員・患者たちに毎日、毎食与えた。すると皮膚が溶け落ちるなどひどい被曝をした人でさえ、原爆による症状(白血病、貧血ほか)が出ず、その後、何十年もほとんどの人が原爆症を発症しなかった。

 秋月医師のこの指導(治療食)は正しかったことが、のちに科学的に証明された。

 玄米に含まれる「フィチン酸」や、味噌や納豆などの大豆発酵食品に含まれる「ジピコリン酸」に放射性物質を体外に排泄させる効果があることが明らかになったのである。

 そして、なんといっても自然塩による放射性物質の浄化作用である。秋月医師の治療を受けた被爆者たちは、のちに「玄米と塩で助かりました」と異口同音に感謝の言葉を述べたという(詳細は拙著『「減塩」が病気をつくる!』<石原結實/青春新書インテリジェンス>参照)。

 秋月医師の書かれた『長崎原爆記 被爆医師の証言』(日本図書センター刊)の英訳本は、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故のあと、欧米のたくさんの人に読まれ、その後はヨーロッパで味噌の流通が10倍増となったという。

 私も大学を卒業して長崎大学医学部原爆後遺障害研究施設内科に入局し、まだほやほやの若造医師だった頃、何回も秋月医師にお会いして種々薫陶を受けたことがある。

 いつもにこにこされた温和な紳士で、生涯玄米食を続けられ、90歳近く(1916年1月3日〜2005年10月20日)まで長生きされた。
(文=石原結實/イシハラクリニック院長、医学博士)