全日空時代から横浜フリューゲルス一筋でプレーした前田治氏【写真:宇都宮徹壱】

写真拡大 (全2枚)

横浜Fは「すべて」だった。だが「99年元日・国立」に足を運ばず

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。(取材・文:宇都宮徹壱)

----------

「横浜フリューゲルスの前田」と言えば、貴方は誰をイメージするだろうか。最後のシーズン、選手会長としてチームをまとめ、全日空との交渉に当たった「男前田」こと前田浩二を思い浮かべるファンは少なくないだろう。一方で忘れてならないのが、前田治である。

 東海大在学中に日本代表に選出され、国際Aマッチ14試合に出場して6ゴール。鳴り物入りで88年に全日空に「プロ」として入団し、Jリーグが開幕した93年には開幕4試合連続ゴールを挙げて一躍脚光を浴びた。

 ちなみに「男」前田がフリューゲルスに加入したのは96年のこと。まさに入れ替わるようにして「オサム」前田は、この年に31歳で現役を終えている。

 フリューゲルスとマリノスとの合併が報じられた98年10月29日、前田はフリューゲルスのジュニアユースコーチという立場であった。すでにスパイクを脱いで2年目であり、当然ながら「99年元日・国立」のピッチには立っていない。

 そればかりか、現場に向かうことをあえてせず、自宅でTV観戦していたという。フリューゲルスが「すべて」だったと言い切る男にしては、いささか奇異に思える行動。その背景には、何があったのだろうか。

 今回のインタビューが行われたのは、横浜市都筑区にあるハワイアンのお店。前田はサッカー解説やJFAの『こころのプロジェクト』の仕事をしながら、妻が主催するフラダンス教室の運営も手がけている。そして彼は現役引退後もこの地に留まり続け、後援会の人々との交流を大切しながら静かな暮らしを営んでいる。

 プロフットボーラーという人種は、特定のクラブや土地に縛られず、自由に自身の人生を決定してゆく。しかし前田はプロになって以降、全日空とフリューゲルス、そして横浜という土地から離れることはなかった。

 そして今はなきクラブの思い出の品々を大切に保管し、フリューゲルスOB会の世話役も進んで引き受ける。さながらフリューゲルスの墓守のような前田に、これまでずっと胸に秘めてきた想いについて、語ってもらった。

かつては野球少年。小学生時代はリトルリーグでもプレー

 生まれは福岡です。ただ父親の転勤で、幼稚園と小学校6年までが東京、中学の3年間が福岡、そして高校から帝京に進学することになって、それからはずっとこっちです。

 サッカーを始めたのは小学校4年から。それまでは調布のリトルリーグで野球をやっていて、1コ上には荒木大輔さんがいました。なにぶん野球全盛時代でしたから、「将来は巨人に入って、王選手みたいにホームランを打ちたい」というのが夢でしたね。

 1年くらい野球とサッカーを掛け持ちしていたんですけど、小学6年からはサッカー一筋です。福岡の中学では、サッカー部は弱かったんですけど、みんなで頑張ったら県大会に初めて出場して、僕自身も九州選抜に選ばれました。

 その時、キャプテンだったのが、のちに帝京で一緒になる平岡(和徳=元大津高校サッカー部監督)。3年の高校選手権決勝で、僕のゴールをアシストしてくれたのも彼でした。

 決勝の相手は清水東。長谷川健太、大榎克己、堀池巧の三羽烏がいて、1年には武田(修宏)もいました。帝京は前年の準決勝で敗れているので、ずっと「打倒、清水東」で1年間頑張ってきたんですよ。

 決勝点のシーンは、よく覚えています。僕は相手の密着マークを受けていて、いったんボールから離れるような動きをしたところに、平岡がドリブルで仕掛けていい感じでクロスを上げてくれたんです。それをショートバウンドで右足ダイレクト。野球をやっていたせいか、ボールの落下点に合わせて打つのは当時から得意でしたね。

 大学は当時(関東大学リーグ)2部だった東海大です。1年で得点王になって、2年の時に2部で優勝しました。入れ替え戦でも勝って、僕も2年連続で得点王。3年の時には1部でも優勝して、今度は得点王とアシスト王の2冠を達成できました。1、2年は2部でしたが、大学時代は4年連続で得点王とベストレブンになることができましたね。

東海大在学中に日本代表入り。横浜Fの前身、全日空を選んだ理由

 そうこうしているうちに、日本代表のトレーニングにも呼んでもらえるようになったんです。監督は石井(義信)さん、そのあとが(横山)謙三さん。右も左もわからない新人でしたから、もうドキドキで(苦笑)。最初は自分らしいプレーができませんでしたね。

 それでも4年の終わりくらいから、代表メンバーに入れてもらえるようになって、ワールドカップ(90年イタリア大会)予選に出させてもらいました。得点も決めたんですけど、ちょうどその頃に恥骨結合炎をやってしまったんですよね。

 股関節のところが痛くて、朝起きるのも辛くって。代表では痛み止めを打ちながら、だましだましやっていたんですけど、満足できるプレーができませんでした。結局、代表でのキャリアはそこで終わりです。

(卒業後)全日空を選んだ理由ですか?「プロ契約でないと行きません」という僕の主張を受け入れてくれたからです。すでに木村和司さんが「スペシャルライセンス」として日産でプレーしていましたが(86年)、まだまだ社員選手が一般的でした。

 いちおう読売と日産以外の全チームからオファーをいただきましたが、プロ待遇での入団を認めてくれたのは2部の全日空だけでした。ただ、東海大でも2部からのスタートだったので、そこは悩まなかったですね。

 全日空に入団した年(89年)の監督は塩澤(敏彦)さんでしたが、僕のキャリアで大きな影響を与えてくれたのは、次の加茂(周)さん。あれはみんなで飯を食っていたときでしたかね。いきなり加茂さんから「ワシはお前を復活させるために、ここに来たんや」と言われたんですよ。あれは殺し文句でしたね(笑)。

 全日空に入ってからも、鎖骨を骨折したり靭帯を伸ばしたり、けっこうケガが続いたんです。「このまま終わっちゃうのかな」と思った時に、加茂さんからそう言われて「だったら、もう一度やってやろう」と思いました。

加茂監督のゾーンプレス導入で完全復活。早すぎた現役引退

 僕のポジションが変わったのは、それからでした。それまでセンターフォワードだったのが、少し下がって右のサイドハーフ的なポジション。ちょうどJリーグが開幕する1年くらい前ですかね。「ゾーンプレス」と呼ばれる戦術が導入されて、全員が連動してプレスをかけにいかなければならなくなったんです。

 でも、加茂さんが常に言っていたのは「これは守備のためではなく、攻撃のための戦術なんだ」と。僕自身、それまで前線で背負って受けていたのが、ポジションが変わってからは前向きでボールがもらえるようになった。それで持ち前のスピードが活かせるようになりましたね。

 93年の(清水)エスパルスとの開幕戦で生まれた、フリューゲルスのファーストゴールは、まさに加茂さんのそれまでの指導の集大成のようなゴールでした。

 僕がパスをもらって、左サイドからドリブルで持ち込んでから、中央にダイアゴナルで走り込んでくるソリさん(反町康治)にパスを送ったんです。そしたらソリさんがスルーして、フリーになっていたアンジェロが決めて。

 その後、モネールが2点目、僕が3点目を決めたんですけど、理想的だったのはやっぱり1点目。自分が得意とするドリブルを活かすことができましたからね。

 あの開幕戦での勝利(3-2)で「この戦術が完成すれば、われわれは日本の頂点に立つことができる」という加茂さんの言葉に、みんなが確信を持てるようになりました。僕自身も完全復活という感じで、ゴールを積み重ねることができました。

 現役を引退したのは96年の終わりです。まだまだできると思っていたし、自分から辞めたいとは思わなかったですよ。ただ、一回り下の吉田孝行が台頭してきて、僕の出番は一気に少なくなったんですよね。

 チームとしても若返りを図る意図があったようで、それで現役引退を勧められました。「お前は生え抜きだし、将来このクラブを担っていく存在だから、ここは後輩にポジションを譲って、早く指導者の道に進め」と。しかも「いずれフリューゲルスの監督になって、また三ツ沢に戻ってこい」とまで言われて(苦笑)。

 もちろん葛藤はありました。「まだやれる」という自信もあったし、実際に別のクラブからも幾つかオファーはもらっていましたから。その前の年に結婚していて、ウチの家内には「好きなようにすればいいよ。ここを離れるんだったらついていくし」と言ってくれました。

吸収合併報道前夜にテレビプロデューサーからの電話が

 お世話になっている地元の後援会の人たちにも相談しました。そしたら皆さん「いい話じゃないか」っておっしゃるんですね。「フリューゲルスの監督になれるかどうかわからないけれど、他のチームに移ってクビになったら、ここに戻って来られる保証がない」というのが理由でした。

 あまりにも悩みすぎて、いっそサッカーの世界から足を洗ってプロゴルファーを目指すことも考えました(笑)。でも、ここに居続けていれば、そのうちいい流れが来るのかなと思って。それで引退を受け入れることにしました。

 引退後の仕事は、ジュニアユースのコーチでした。「え、トップチームじゃないの?」って思いましたよ(苦笑)。指導を始めたときは「こんなこともできないのか」とがっかりすることの連続でした。

 僕が実演してみせると、みんなが「すげーっ!」って驚くわけです。そりゃそうですよ、ついこの間までプロだったんですから。最初に僕が指導していたのが、今は(横浜)F・マリノスで育成をやっている小原章吾やアビスパ(福岡)で頑張っている坂田大輔でしたね。

 2年目(98年)の時、「松本ヴェガっていう長野のチームにいい選手がいる」と聞いて、そこで見つけたのが田中隼磨(現松本山雅)ですよ。当時はサイドバックではなく、中盤をひとりで仕切っていましたね。

 そんな感じで、ジュニアユースの指導も軌道に乗ってきた時でしたね、フリューゲルスの合併のことを知ったのは。教えてくれたのは、仲の良かったテレビ神奈川の方でした。

 もう亡くなられましたが、『横浜ASフリューゲルスアワー』という情報番組のプロデューサーで、公私共に良くしていただいていたんですよ。電話があったのは、発表の前夜(10月28日)でした。

「オサム、大変だ。フリューゲルスとマリノスが合併するぞ」って。おそらく生え抜きの僕には、伝えておきたかったんでしょうね。急いでアツ(三浦淳宏)に電話しました。アツは当時、僕の弟分みたいな感じでしたから。そこからさらに、他の選手にも話が回っていったようです。

<後編につづく。文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

text by 宇都宮徹壱