まさに栄光と挫折が入り乱れた1999年。当時を振り返る小野の言葉にも力が入った。写真:高橋茂夫

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 小野伸二がサッカーボールを蹴り始めたのは、「たぶん保育園の5歳くらい」だったという。
【小野伸二PHOTO】波瀾万丈のキャリアを厳選フォトで
 
 いろんなスポーツを遊びでやりながら、近所の友だちとボールを蹴っていた。次第にのめり込んでいくのだが、小学校3年までは特定のサッカーチームに属していなかった。
 
 ある日、そんなシンジ少年に転機が訪れる。
 
 たまたま家の前を通りかかった友だちが「これからサッカーのトレーニングに行くんだ」と言い、「じゃあ俺も付いていく」となり、彼はグラウンドの片隅でひとりリフティングをしていたという。それがどんなレベルの代物だったかは分からない。それを見たコーチに「一緒にやらないか?」と声をかけられ、サッカー選手としての第一歩を踏み出すことになるのだ。ちなみに小学校時代は「けっこうデカかった」。
 
 天才少年はメキメキと頭角を現わし、13歳で初めてU-16日本代表に選ばれるなど、サッカー王国・静岡でも知られた存在となっていく。

 幼少期のアイドルはディエゴ・マラドーナで、それはいまも変わらない。ボールキープしているときの佇まいが、どことなくアルゼンチン代表のレジェンドを彷彿させるのは、偶然ではないだろう。
 
「なんかね、ボール持った瞬間にワクワクするじゃないですか。いったいこのあと、なにをするんだろうって。小さい頃からずっと好きですね。いつか会えたらいいなと思ってます」
 
 やがて中学を卒業し、“キヨショウ”こと名門・清水市立商業高校(現・清水桜が丘高校)の門を叩く。入部してまもなく、それまでのサッカー人生で味わったことのない衝撃を受けたという。
 
「小学校から中学校に上がったときって、それはそれでフィジカルの違いとか厳しさを感じたけど、それどころじゃなかった。すぐに『これは付いていけないな』と思って、最初逃げ出しそうになりましたから。冗談じゃなく。練習がハードすぎて、フィジカルが通じないうえに無茶苦茶スピードが速い。本当にどうにもならなかった」
 
 全国区のタレントが集う強豪校で小野は、1年時からレギュラーを張った。インターハイや全日本ユースで優勝を飾り、最終学年はキャプテンとして最強メンバーを率いたが……。高校選手権だけは一度も出場できなかった。シンジの七不思議のひとつだ。
 
「もちろん悔しかったけど、自分はこれからプロになるし、そこで成功すれば忘れられるって考えてました。あの頃は。
 
 だけど、最近になって思うんですよ。僕はいまでもサッカー選手でやってるけど、当時の仲間たちにとって選手権ってのは、やっぱり大事な存在だったんだなって。あそこに行ってる行ってないで、その後の人生がもしかしたら変わっていたかもしれない。そう考えたら申し訳なかったなって思います」
 
 いかにも小野らしい。だが、当時のチームメイトの誰ひとりとしてそうは考えていないだろう。わたしが知るかぎり、メンバーの多くはいまでも誇りに感じている。小野伸二と同じ校庭で汗を流し、ボールを追い、そして涙を流したことを。
 
 フットボーラーとしての礎を築いたキヨショウでの3年間は、かけがえのない日々だった。
 
「サッカーの厳しさを教わった3年間でしたね。仲間の大切さ、先輩後輩の信頼関係、チームとして一丸となって戦う姿勢。毎日毎日、必死に食らいついて、とことん追い込んでました。でもいま思えば、高校の3年間とプロ1年目にかけてが、一番サッカーを楽しんでた時期かもしれない。いま思えば、ね」
 
 高3だった1997年の春、産声を上げたのがU-18日本代表だ。
 
 始動時は小野をはじめ、稲本潤一、高原直泰、酒井友之、田中洋明など2年前にU-17世界選手権を戦ったメンバーが中心だった。のちに小笠原満男や本山雅志、遠藤保仁、中田浩二など次から次へと有望株を取り込んで進化と拡張をつづけ、世界2位への道を突き進む黄金世代だ。
 
 なぜ彼らは光り輝けたのか。小野はこう見ている。
 
「やっぱり僕にとってはみんながライバルでしたし、それはいまでも変わりませんよ。一度集まればひとつになれる団結力はすごかったけど、むしろ離れたときですね。このなかの誰よりも成長するんだ、絶対に負けないと、みんな思ってたんじゃないかな。
 
 それこそが僕らの強み。みんなチーム(高校)に帰ったらそれぞれリーダーだったし、当時から責任感が強かった。代表に呼ばれてない選手にも能力の高い選手がたくさんいたし、合宿中も『いつ落とされるか分からない』って危機感がつねにありましたからね」
 
 そんな上昇志向の強い集団とものの見事に融合したのが、フィリップ・トルシエである。
 
 すでにA代表の監督に就任していたフランス人指揮官は、4年後の日韓共催ワールドカップ、2年後のシドニー五輪を見据え、3か月後(99年3月)にナイジェリア・ワールドユースを戦うU-20日本代表の指揮も任されることになった。
 
「そりゃもう、第一印象は強烈でしたよ。トレーニングの激しさは尋常じゃなかったですから。トレーニングは毎回毎回緊張感があったし、誰が次の試合に出るのか本当に分からなかった。でもね、僕らには合ってたんですよ、そういう緊張感が。本当に集中度の高いトレーニングができてましたから」
 
 日本はグループリーグ初戦のカメルーン戦こそ落としたが、その後は快進撃を続け、決勝トーナメントに入ると、ポルトガル、メキシコ、ウルグアイを連破してファイナルへ。合流間もない早生まれの永井雄一郎が躍動し、怪我で万全ではなかった稲本の代役として遠藤がすんなりハイパフォーマンスを披露した事実が、彼らの底力を物語る。
 
 しかし決勝では、強豪スペインに0-4の完敗を喫した。そこには当事者にしか感じ得ない、微妙なメンタルの揺れがあった。
 
「日本の決勝トーナメントの山には、ブラジルとアルゼンチンがいた。上に行くにはこのふたつを倒さなきゃいけないってみんなが思ってたんだけど、まずアルゼンチンがメキシコに負けて、ブラジルはウルグアイに負けたでしょ。精神的な気構えがぜんぜん違ったんですよ。
 
 で、決勝が絶対王者のスペイン。どこかで『いきなりだな』って感じたところがあったのかもしれない。実際にすごく巧かった。あのときは気にしてなかったけど、シャビとかもいたわけだから」
 そんな1999年は、プロ2年目の小野にとって波瀾万丈の一年だった。
 
 ナイジェリアでファイナリストとなって帰国。その2か月半後、シドニー五輪・アジア予選のフィリピン戦で後方から悪質なファウルを受け、左膝の靭帯を断裂してしまう。
 
 懸命のリハビリの末、シーズン終盤に復帰を果たすも、所属する浦和レッズのJ2降格を食い止めることはできなかった。
 
「それまでに大きな怪我がなかったから、あれ以降、プレーのイメージは変わりましたね。当時感じてたサッカーのイメージとは変わってしまった。復帰してからも前のプレーに戻したい戻したいってジレンマがいつもあって、逆に悪いスパイラルにはまっていって。
 
 最後の5試合で復活したけど、(レッズの残留は)あと一歩届かなくてね。悔しかった」
 
 キャリアにおける、最大のターニングポイントだったのか。
 
「うーん、あれもひとつってところ。ターニングポイントかぁ。いっぱいありすぎて分からない(笑)。たくさんありながら、いまに至るって感じですかね」
 
<♯3に続く>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※5月2日配信予定の次回は、フェイエノー移籍決定の裏話や日本代表への想いに迫るとともに、3度出場したワールドカップのメモリーを紐解きます。お見逃しなく!
 
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PROFILE
おの・しんじ/1979年9月27日生まれ、静岡県沼津市出身。小学校時代から天才少年と謳われ、13歳で年代別の日本代表に選ばれるなど異彩を放つ。清水商高時代はインターハイや全日本ユースでタイトルを獲得。1998年に鳴り物入りで浦和に入団し、そのシーズンのJリーグ新人王に輝く。99年のワールドユースで準優勝を飾ったが、その直後の大怪我で長期離脱。後遺症に苦しみ、翌年のシドニー五輪出場を逃がした。2001年夏からはフェイノールト(オランダ)に活躍の場を移し、UEFAカップ制覇など確かな足跡を残す。06年以降は浦和、ボーフム(ドイツ)、清水、ウェスタン・シドニー(オーストラリア)でプレー。そして14年春、札幌入団を果たした。04年のアテネ五輪にOA枠で出場し、ワールドカップは3度経験(98、02、06年)。国際Aマッチ通算/56試合・6得点。Jリーグ通算/209試合・72得点(うちJ1は180試合・63得点)。175臓76繊O型。データはすべて2017年4月20日現在。公式ブログはhttp://lineblog.me/shinjiono/