続々とプロ内定が決まるなか、もっとも動向が注目された小野は浦和を選択した。(C)SOCCER DIGEST

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【週刊サッカーダイジェスト 1999年5月19日号にて掲載。以下、加筆・修正】

 のんびりとしたムードを漂わせながら、基本練習を主体としたトレーニングは、SBSカップを全勝で制した後も継続して繰り返された。
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 97年の11月、新装間もないJヴィレッジで、チームは過去最多23名の候補者を集めキャンプを消化する。
 
 中田浩二や加地亮、そして短髪となった小笠原など、所属する高校での活躍が認められた選手らが、初めて招集を受けていた。そんななか多くを望んでいた中田は、やや肩透かしを食らったようだった。
 
「たしかに溶け込みやすい雰囲気だし、学校(帝京)の練習だけでは受けられない刺激がここにはある。技術に関しては、みんな素晴らしいものを持っていますから。でもなんか、思っていたより覇気がないというか、単調な練習をただ繰り返しているという感じですね」
 
 初めてセッションに参加した彼でさえ物足りなさを感じている。ずっといる選手たちがなにも考えていない訳がない。
 
「そんなにアセる必要がどこにあるのかな? 結果よりも、能力を高めることが大事な年代。プランどおりに時間は進んでいる」
 
 清雲監督は豪語した。しかし、徐々に彼らは48歳の指揮官の言葉に耳を貸さなくなっていく。
 
 折りしも、ほとんどの選手の進路が続々と決定している時期だった。誰もがプロという未知の世界を心の片隅に意識しつつ、より高いモチベーションで臨んでいた。

 だがトレセンでやるような練習の反復、加えていつまで経っても確固たるチームコンセプトが提示されない。これまでになく不平不満をこぼす選手が多くなる。かといって真っ向から意見を述べる者はなく、惰性のままに時間を費やす。そのあたりはやはり、18歳と言うべきか。
 
 唯一、入団先が未定だった小野が、2日遅れで福島入りした。みんなに「ようやく浦和に決まったよ」と報告。肩をたたき合いながら談笑する輪のなかに、清雲監督の姿は見受けられなかった。

 傍目の楽観的な雰囲気とは、あまりに対照的な内情。その後エスカレートしていくことになる。
 
 大ボリュームで調整期間が割かれた97年が終了し、Jリーグで活躍する稲本、酒井、さらには高校選手権で名を売った本山、中田なども、全国的な知名度を得るようになっていた。
 
 98年2月、宮崎キャンプ。ほとんどの選手がJリーグへと羽ばたくその年、ユース代表に与えられる時間はきっと数える程度だろう。その上、アジアユースという初の公式戦を控えている。大事な大事なキャンプであることは、周知の事実であった。
 
 だが、清雲監督は姿勢を崩さない。「セレクションは終わったと考えてる。個々のレベルも非常に高くなったと感じている。あとは彼らがいかにプロの世界で、能力を開花させるかだろう」
 
 と、相変わらず選手たちに自主的な意識改革を要求していた。一方で若駒たちは、監督になにか新しいもの、チームに対する強いメッセージを求めている。

 4バックの中央が確定していない。高原と前線でコンビを組むパートナーも決まっていない。そんな不安を紛らわすかのように、選手たちは監督と対話することを避け、自分たちだけの大きなサークルを作ろうと、あらぬ方向で団結していく。
 
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 6月、アジアユース1次予選。
 
 日本代表がフランスでアルゼンチンに敗れた翌日、U-19日本代表は大宮サッカー場で初の公式戦を迎えた。当然、メンタルリーダーだった小野、右サイドのスペシャリスト市川はピッチにいない。それでも十分に勝てる相手だったが、内容はいたって散漫なものとなった。
 
 ブルネイに12-0、ベトナムに2-0、香港に7-0。実力からすれば至極妥当なスコアで、浮かれた選手はひとりもいない。思わぬ苦戦となったベトナム戦後、普段はクールなストライカーが怒りを露にしていた。
 
「どうせ勝てるんだから、っていう不快なムードだったし、1人ひとりに戦う気持ちもなかった。みんなどこか甘えてるんですよ。ボクは世界で結果を出すためにやってる。でもみんなからは、そういう強い意志が感じられない」
 
 高原のこの言葉に呼応するかのごとく、観戦していた南も、うなだれ気味にサングラスを外した。
 
「去年の夏からあんまり成長してないのかな。守備はタテパス一本でやられるし、攻撃にも決まりゴトがない。期待してるんだけど」
 
 世界大会を経験してきた2選手の言葉が、重低音で響いてくる。
 
 会見の場に立つ清雲監督にも、動揺が見え隠れし始める。
 
「まず大事なのは結果だから」
 
――この年代には、まず内容を要求するとおっしゃていましたが。
 
「1位突破したことが重要。問題点は、秋のアジアユースまでに修正すればいいんだ」
 
 自身が示してきた方向性と、選手たちのビジョンが合致しない。立ち上げから、非の打ちどころがない選手招集を繰り返してきた目利きの監督。しかしながらユース年代の育成者、指揮官としての力量には疑問符がつく。それを決定づけた3試合でもあったのだ。
 
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 フランスから帰国した小野について、日本協会の強化サイドはこんな発表をした。「今後は五輪とA代表に専念させる」と。
 
 これがひとつの分岐点となる。

「小野クンが戻ってくれば、また良くなる。どこかでそう思ってたフシがあったんで、ボクらにとっては逆にいいコトだったのかもしれません。頼りすぎてるっていうところが、やっぱありましたから」
 
 東福岡での華々しいプレーぶりとは一線を引き、どこか黒子的な存在だった本山は、この採決を大いに歓迎していた。

 さらには新キャプテンとなった高原を刺激し、プレーエリアの拡大を迫られたボランチ稲本にも影響を及ぼす。リーダー的な存在がひとり、ふたりと増え始めていた。
 
 迎えた8月のSBSカップ、必死に勝利を求める彼らの姿があった。たしかに組織という観点から見れば、まだまだ不十分な点が多く、不安定なイメージは払拭されていない。

 だがアジアユース本番を前に、彼らが大人への階段を駆け上がろうとしている、そんな印象を受けた。高原はケガのため不出場だったが、そのチャンスをニューカマーの播戸竜二がしっかりモノにするなど層も厚くなっている。この上昇ムードは、清雲監督がもっとも望む状況でもあったはずだ。
 
 しかしアジアユースを直前に控え、タイでのシミュレーション合宿を終えていたにもかかわらず、「小野と市川がいなければ予選突破は苦しい」と、監督は浦和と清水に派遣を要求して回ったのである。
 
「なぜ? そんなにオレたちが信用できないのか。いい雰囲気でやってたじゃないか。もうヤダよ」
 
 とある選手の言葉だ。選ばれた小野と市川も、心の準備ができていたとは考えがたい。
 
 流れは、再び逆行した。

文:川原崇(サッカーダイジェスト)