吉野家ホールディングス会長 安部修仁(あべ・しゅうじ)1949年、福岡県生まれ。香椎工業高校卒業後、吉野家アルバイトを経て、72年2月正社員に。77年九州地区本部長。90年8月代表取締役常務。91年同専務を経て、92年9月代表取締役社長。12年9月会長、14年8月代表権を返上し経営の第一線を退く。12年5月日本フードサービス協会会長。現在同協会理事。

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■「牛丼=吉野家」その原点に立ち返る

【弘兼】先ほど通ってきたエントランスには、吉野家と並んで讃岐うどん店「はなまる」のロゴが見えました。同じグループだと初めて知りました。うどんやそばに嗜好がある僕ら団塊の世代が年を取るにつれ、そのニーズも高まるのではないでしょうか。

【安部】ええ、まさに。基本的には人口数の多い層の嗜好がマーケットをつくります。団塊の世代に消費が引っ張られるのは当然です。

【弘兼】やはり、マーケットに合わせて事業展開していくものですか?

【安部】いえ、そうとは限りません。それぞれの企業が創業時から独自に蓄積してきた“無形の価値”に立ち返ることが大切だと思います。パイの大きいマーケットは参入企業も多くなりますが、その場合は、先に手を付けておいた企業が有利です。

【弘兼】ブランドイメージを生かしていくのですね。確かに僕自身にも「牛丼といえば吉野家」という刷り込みがあります。

【安部】店舗数はすき家のほうが多い。ブランドとはそういうものです。

【弘兼】実は僕と吉野家との付き合いは非常に長い。勤めていた松下電器(現・パナソニック)をやめて、フリーになった頃、新橋のガード下にあったデザインスタジオでテレビコマーシャルの絵コンテを描くバイトをしていました。そのとき、仕事終わりにいつも、新橋の吉野家で牛丼を食べて帰っていました。1973年頃だったと思います。

【安部】では、ニアミスですね。私がアルバイトとして吉野家新橋店に入ったのは、70年頃。弘兼さんが通っていた頃は、残念ながら新橋店にはいませんでした。

【弘兼】安部さんの経歴を見ると、福岡県の香椎工業高校卒業後、ギタリストとなるために上京しています。

【安部】ええ。まずは東京の印刷会社に就職しました。そこからプロになる道筋を探そうと思っていました。

【弘兼】しかし、ミュージシャンとして成功するのはほんの一握り。

【安部】最初の挫折ですね。東京ではそこら中に実力者がいるわけです。仕事と両立できなくなったこともあり、いったんバンドを解散します。

【弘兼】その後、吉野家でアルバイトを始めます。なぜ吉野家だったんですか?

【安部】単純に時給が高かったからです(笑)。吉野家は相場より5割高い「時給300円」でした。もう一度小銭を貯めて、バンド活動を再開しなければならない。それだけしか考えていませんでした。すると、吉野家というのは、見かけは前掛けに長靴という前近代的ですが、実は先進的な経営をしていた。そして社員からアルバイトまで優秀な人間がたくさんいた。これは面白いなと思ったのです。

吉野家の創業は、1899年に遡る。大阪出身の松田栄吉が、料亭での修業を経て東京・日本橋の魚河岸に食堂を開く。1926年、関東大震災後に魚河岸が日本橋から築地に移転されたのに伴って、店も移っている。もともとは魚河岸で働く人間を顧客とした10坪足らずの小さな店だった。これが、築地1号店である。
45年の東京大空襲で築地市場は全焼。店の再建を任されたのが栄吉の息子、瑞穂だった。中央大学法学部出身の瑞穂は、戦後、アメリカの“チェーンストア経営”を取り入れて、事業を拡大していった。安部が吉野家にアルバイトとして入ったのは、急成長の時期だったのだ。

■“殺し文句”でバイトから正社員に

【安部】私が入ったときはまだ5店舗しかなかった。その数年前に、アメリカのチェーン店にならって、シンボルカラーがオレンジ色に統一されていました。親父(当時の松田瑞穂社長)はアメリカ式のチェーン店の経営理論をそっくりそのまま取り入れていた。肉のバイヤーは「ミート・マーチャンダイザー」、店舗物件開発担当は「ロケーション・ディレクター」、人事教育部長は「エデュケーター」と呼ばれていました。

【弘兼】その吉野家の先進的な経営を肌で感じて、ここでやっていこうと思った?

【安部】いえ、まだ腰掛け気分でした。アルバイトのまま仕事を覚えて店長代行になったんです。ある日、突然適性検査を受けさせられて、合格。半年やったらボーナスが出るぞという殺し文句で「はい、よろしくお願いします」と(笑)。72年2月のことでした。

【弘兼】入社後、77年には九州地区本部長になっています。異例の出世だったのではないですか?

【安部】76年に大阪地区本部、翌77年に九州、名古屋と次々と地区本部が立ち上がっていますが、本部長はみんな私と同じようなキャリアと年代の若手社員でした。私の場合は、九州地区本部の立ち上げの際、自分に本部長を任せてほしいと親父に直訴しました。

【弘兼】急成長期の吉野家は、相当荒っぽい労働環境だったのでは?

【安部】ええ(苦笑)。九州で最初の店舗を開いたとき、東京の店から人を呼び寄せたのです。そのときの誘い文句は「大広間でゆったりと寝られる宿泊施設で、大風呂完備」でした。福岡に来た彼らは唖然としていましたね。競艇場の近くの倉庫を借りて、そこに店舗と工場をつくっていたんです。大広間というのは工場の2階。そこで貸し布団で雑魚寝。

【弘兼】大風呂というのは?

【安部】プラスティックの大きな桶に水を溜めたのが大風呂でした。当時の仲間とは今でも笑い話です。ただ我々は嫌々仕事をやらされていたのではなく、能動的にやっていたので楽しかった。それに私は、リーダー候補にはハードワークは避けられない、と思うんです。

【弘兼】この連載では様々な経営者に話を聞いていますが、みなさん若い頃は例外なく、滅茶苦茶仕事をしていますね。

【安部】親父は、成長する組織についてこう表現していました。「500人の利口な人たちを、50人のバカがマネージメントする。それをコントロールするのは、5人のクレージーな人」。

【弘兼】その意味は?

【安部】言われたことをきちんと理解し、こなせる常識的な人が大勢いなければ組織は成り立たないが、それだけでは動かない。利口な人たちを使いこなすにはバカにならなければならない。その上に全体をコントロールして、組織全体の推進力を力に生み出すのは、少数の狂気が必要となる。自らにハードワークを課して、進んで新しいことにチャレンジしていく、逞しい人間でないと、リーダーとして未来を託せない。ただ、それを全員に強要するのは問題です。

■腰掛けのつもりが吉野家に人生を捧げる

安部の入社4年目の76年に50店、77年には100店、78年には200店と吉野家は店舗を広げていく。この時期、社長の松田は、「アメリカ200店舗構想」をぶち上げている。その“先兵”として幹部社員がアメリカ留学に送られた。その中の一人が安部だった。
79年夏、安部はイリノイ州カーボンデールの大学へ語学留学。1年間は大学で語学を学び、その後はアメリカの店舗を手伝うという予定だった。しかし、翌80年3月、安部は突然、日本に呼び戻される。吉野家が経営危機に陥っているというのだ。安部の帰国から3カ月後、吉野家は倒産。83年に会社更生法が適用され再建に向かって動き出す。

【弘兼】急成長していた吉野家が急に危なくなったのは記憶に残っています。当時は、牛丼という単品商売だったから失敗した。牛丼は古くさい、若者に敬遠されるようになったという論調でした。

【安部】それは的外れです。吉野家が経営危機に陥った原因は、3つあります。肉の品質低下、価格の値上げ、過剰出店による赤字店の増加です。店舗が増え、米国産の牛肉が不足し価格が高騰してしまった。そして値上げをして、一部にフリーズドライという研究中の、いわば乾燥冷凍加工肉を使うようになった。それで味が落ちて、それまでのお客様が離れてしまったのです。

【弘兼】吉野家のキャッチフレーズである、「うまい」「やすい」「はやい」のうち、先の2つが崩れてしまった。

【安部】簡単に言えばそういうことです。私が吉野家に入った最初の8年間は、イケイケの成長一辺倒、それから再建中の7年は超安全経営。その15年の間に、2つの相反する特異なDNAが私にも吉野家という会社にも宿ったと思います。

【弘兼】吉野家はセゾングループの支援を仰ぎ、87年春に債務を100%弁済。88年にレストラン西武傘下で、「株式会社吉野家ディー・アンド・シー」として再出発しました。安部さんは92年、42歳のときに代表取締役社長に就任。そこから22年社長を続けました。腰掛けのつもりが人生を吉野家に捧げることになってしまった。

【安部】(腕組みをして)人生を捧げるという意識は全くなかったです。私としては目の前の仕事、役割を全力で片付けていただけでした。

【弘兼】それは僕と同じ感覚かもしれませんね。目の前の締め切りをこなしているうちに、あっという間に画業40年が過ぎたという感じですから(笑)。

■2年半も続いた輸入禁止のダメージ

【弘兼】安部さんが社長になってから、また吉野家に試練が訪れます。2003年12月、アメリカのワシントン州でBSE(牛海綿状脳症)感染の疑いのある牛肉が発見。日本の農水省がアメリカの牛肉の輸入を禁止し、吉野家から牛丼がなくなりました。米国産の牛肉ではないと吉野家の味が出ないものですか?

【安部】穀物飼育の米国産牛肉を加熱したときに出るジュースに、タマネギの糖度、白ワインをベースにしたタレが加わる。それを大鍋で煮ることで吉野家の味になります。素材が替わるとタレの構成成分を替えなければならないのです。実は以前から米国産の牛肉が調達できないという事態を想定してシミュレーションはしていました。

【弘兼】つまり、オーストラリアのオージービーフ、ブラジルなどの南米産の牛肉を使うということですね。

【安部】ええ。米国産牛肉に頼っている以上、リスクはあると考えていました。そこでわかったのは、牧草飼育中心のオーストラリアはもちろん、中南米諸国の牛肉のうち、吉野家の牛丼のタレに合うものをかき集めても100店舗を維持するのが精一杯ということでした。アメリカというのは、穀物飼育の牛肉を大量に生産していた唯一の国だったのです。

【弘兼】つまりアメリカ産抜きでは、約1000店舗ある吉野家の牛丼の味が提供できない、と。

【安部】吉野家を支えてくださっているお客様はヘビーユーザー、常連客。いつもと違う味の牛丼を出せば、これは吉野家の味ではないと失望される。一口食べて、吉野家の味だとわかってくださるお客様がいることが我々の誇り。ここにダメージを与えることは、後々、ブランドへの信頼を損なってしまう。

【弘兼】かつてフリーズドライの肉を使用し、経営危機に陥ったという経験があった。

【安部】はい、その通りです。なぜ、吉野家を選択していただいているかというと、今までの吉野家の味、サービスの蓄積があるからです。その期待を裏切ることは最もよくない。

【弘兼】他の牛丼チェーンは、アメリカ以外の国から牛肉を調達して牛丼の提供を続けたところもありました。

【安部】ほかでできているんだから、吉野家でもできるだろうという意見はたくさんいただきました。お客様は出せ、出せとおっしゃったけど、そうした熱心なお客様は、味が違っていれば、これは吉野家の牛丼ではないと失望すると思ったのです。期待を裏切るぐらいならば輸入が再開するまで休もうと判断しました。正直なところ2年半も輸入禁止が続くとは思っていませんでしたが。

■小倉昌男に宅配サービスを相談

【弘兼】01年には、牛丼チェーン店で値下げ競争がありました。あのときは牛丼の並盛りが280円にまで下がりました。もともと牛丼は高くない。そこまで下げたことで会社にダメージはなかったのですか?

【安部】“やすい”の期待に応えなければなりませんでした。ただ、東証一部に上場した直後で、株主に対する責任もあり利益も落とせない。二律背反の問題を抱えていました。

【弘兼】どう解決したんですか?

【安部】前向きに考えることにしました。我々は無借金経営で増収増益が続いていました。そうなると組織は硬直化して、セクショナリズム、官僚化が起こる。そこで無理難題を解決するために、革新運動をすすめることにしたのです。

【弘兼】具体的には?

【安部】あらゆるコストの見直しです。もちろん、全社で様々な改善を行っていました。ただ、改善の連続で完成度が高くなればなるほど、矛盾も重なるものです。そのとき私が言ったのは、改装ではなく、一回更地にして設計し直そうということでした。たとえば、配送。それまでは車で配達して、入荷作業は店でやっていました。だいたいそれが30分ぐらいかかるんです。少人数で店を運営しているときは、かなりの負担です。そこで店に必要な品目だけをラックに積んで、運転手がそのラックごと収納する形を考えました。

【弘兼】そうなれば店員の労力が減ります。ただ、そんなに簡単にいくのですか?

【安部】店の入り口の段差をなくさなくてはなりませんでした。

【弘兼】店のつくりを変えるのですね。

【安部】さらに、入客数の少ない時間の店員配置の見直しも検討しました。そのために実際の店舗の店員の歩行距離を計測して、なるべく作業の動線を少なくするために店内の配置も替えました。そうしたことで生産性が一気に高まったのです。

【弘兼】今後、日本の人口は減っていきますが、外食産業の未来についてはどうお考えですか?

【安部】外食産業の売り上げが落ちた1つの理由は、コンビニなどで買える惣菜や弁当などの「中食」が発達したことでしょう。そして外食産業は過当競争です。牛丼店でいうと、かつては吉野家しかなかったのに、現在は上場3社(※)で国内約4000店。店舗数はかなり増えました。

【弘兼】牛丼のファンだった団塊の世代も年を取って、食べる頻度も減っている。

【安部】それもチャンスだと考えています。25年前、私が社長になった頃、今後パーソナルユース、つまり宅配が増えるだろうと思い、ヤマト運輸の故・小倉昌男さん(当時、代表取締役相談役)のところに相談に行ったことがありました。いずれシルバー層が「マス」になれば、パーソナルユースと健康志向が強まると考えたのです。結果としてはそのときは実現しなかった。今はドローンなどの新しい技術も出てきているので、山間部に住む高齢者にも牛丼を届けることができるかもしれません。これからは大変かもしれませんが、同時に面白いことができる時代だと思っています。

※「吉野家」の吉野家ホールディングス、「松屋」の松屋フーズ、「すき家」「なか卯」のゼンショーホールディングス

■弘兼憲史の着眼点

▼「優秀な奴は安い」非学歴主義の底力

1949年生まれの安部さんは、僕と2つ違いの同年代です。僕たちの世代にとって、牛肉は高級品でした。牛丼を初めて食べたときは、世の中にこんなに美味いものがあるのかと思ったほどです。

それ以来、僕は吉野家党です。安部さんが言った、吉野家の客がいつもの味でないと満足しないのはよくわかります。

成功した経営者の方に話を伺って思うのは、若い時期に自分の背中を押してくれる人物と出会っていることです。安部さんの場合はそれが吉野家の松田瑞穂社長でした。松田社長の口癖は「高い奴は安い、安い奴は高い」というものだったそうです。優秀な人がいるとすぐに昇給やボーナスに反映させました。報酬が高くてもよく仕事をするので、結果的には安いという考えです。そして「これは」と見込んだ人間には、会社がお金を払ってセミナーなどに参加させて勉強させるのです。

吉野家HDの河村泰貴現社長も安部さんと同じく、アルバイトからトップに駆け上がりました。優秀であれば学歴、経緯は一切関係ない──。これこそが、吉野家の強さなのかもしれません。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(田崎健太=構成 大槻純一=撮影(対談) 時事通信フォト=写真)