前回、「五箇条のご誓文」を当時の民衆がどのように受け止めたかという「常民の歴史」に触れました。

 これに対して、子供が学校で習ってくるのは、多くは政治史です。645年大化の改新、794(啼くよ)うぐいす平安京遷都、1192(いいくに)作れと鎌倉幕府・・・といった類が典型的な政治史です。

 例えば「大阪城は豊臣秀吉が作った」などと言われますが、1583-98年にかけて大阪で実際に築城工事に携わったのは多くの大工であり、左官であり石工であり、その他数限りない職人の仕事にほかなりません。

 建築史では柱や梁、あるいは欄間彫刻など含め、細部が年代決定や様式の最大重要ポイントになります。たぶん「作らせた」はずの為政者は、ほとんどこうしたことには知識も経験もない。

 「アベノミクス」にしても、大臣や閣僚に政策立案能力がどれくらいあるか分からないのと同じことで、実際に歴史を形作っていくのは、名もない庶民の無数の生活、常民の生きたファクトこそが歴史にほかなりません。

 それに大鉈をふるって後から付加されるストーリーは、後代の粉飾と言うしかありません。

 「五箇条のご誓文」は、その典型を示しているように思います。

 いま「古典落語」と呼ばれるものの大半は、古くからあった話が明治期に再編され、戦前までのものをそのように呼んでいるもので、1930、1940年代に作られ工夫された「古典落語」も存在します。

 例えば上方落語の「代書」(代書屋)は、文字が書けない顧客が履歴書を書いてもらいに代書屋さんを訪れてのチグハグなやり取りを描いたものですが、昭和5年などの年号が出てくるバージョンもあり、1930年代にも労作されていたことが分かります。

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文明開化と古典落語:差別説教をめぐって

 桂枝雀師匠の高座が有名ですが「文盲のとんちんかんなやりとりを笑う」といった趣旨が差別的と指摘された可能性があり、生前の枝雀師匠はいろいろ工夫〜苦労されたのではないかと想像しています(関係者にお目にかかかる折、聞いてみるつもりでいます)。履歴書の記述にあたって、

代書屋「生年月日、いうてくらはりますか?」

客(松本留五郎)「え? わたしが?」

代書屋「あたりまえですがな、あんたが言わんで誰が言いますの?」

「えー(小さく咳払い)」

代書屋「・・・?・・・」

「(大きな声で) せいーねんーがっぴ」

代書屋「・・・違いまんがな、せいねんがっぴ「と」言うんやのうて 生年月日『を』 言うてください」

「(さらに大きく呼吸を整えて)」

代書屋「・・・???・・・」

「(いっそう大きな声で)せいーねんーがっぴー お!」

 こんなやり取りで観客の爆笑を誘いました。

 さて、「笑う親鸞」などの仕事で私は浄土真宗の説教とご縁をいただいていますが、特に関西ではかつて「差別説教」の問題が真剣に検討されていました。

 「親の因果が子に報い・・・」

 といった因縁話を筆頭に、戦前までお寺の和尚さんが普通に話していた説教説話が、のきなみ新憲法と抵触してしまい、宗門でも対策を立て、またかつては特に関西圏では法話に紛れ込んできたチンピラ、やくざの類が

 「和尚、いまの説教 差別と違うんか?」

 といった形で金品を要求する恐喝事件なども頻発、「不用意な話はできない」ということになっていった経緯もあります。平成に入って暴対法などもでき、こうした差別説教をめぐるお寺への「ゆすりたかり」の数は減ったと思われますが、根絶しているかどうかは分かりません。

 枝雀師匠の「代書」も、現在の慎重になりすぎた放送業界からすると、抵触しそうな細部がたくさんあります。

 例えば主人公の職業が元来は廃品回収(「がたろ」と称された)であったのがポップコーンに似た米菓子製造(「ぽん」と称される)に改められるなど、苦心の跡が偲ばれます。

 特にテレビなどでは、有形無形の放送コードに縛られ、私も「題名のない音楽会」の監督時代、いくつか記憶があります。なかなか面倒なこともあるものです。

 ともあれ「古典落語」には文明開化の初期、新しい風物に慣れない民衆がおかしなリアクションを見せるケースが数多く見られます。それらは近代になって発展した「寄席」で明治時代に工夫され、またかなりの数が1925年のラジオ放送開始以降、廃れていったと考えられます。

 「郵便ポスト」を「垂れ便」と読み間違えて、本当に公衆便所よろしく用便した人がいたのかどうかは寡聞にして存じませんが、識字率が上がってきて「郵便」という文字を知る人が増えた時期、こうしたネタが日本の話芸の中で多くの民衆の笑いを誘ったことは間違いないでしょう。

 これとは違って、前回ご紹介した宮本常一さんのフィールドワークは、現実に存在した民衆の行動、事実であって、これこそが本当の意味での歴史、大阪城は秀吉が建てたのではなく大工さんが工事した細部で成立している、といった意味で、ファクトに基づく歴史、私たちが日本の事実、伝統として直視し認識すべきものであると思っています。

「五箇条のご誓文」と「人間宣言」

 21世紀の今日「五箇条のご誓文」が取り沙汰される1つの局面として、1946年1月1日に昭和天皇が発した詔勅があります。正式には

 「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」

 ちなみに「庶幾フ」は「こひねがふ」で、天皇が祖先である神々に請い願っているのだと思いますが、一般にこの詔書は「人間宣言」として知られるものです。その冒頭に昭和天皇は(これは天皇本人の考えであったと伝えられています)五箇条のご誓文全文を引用しています。仮名に開いて引用してみましょう。

 ここに新年を迎う。顧みれば明治天皇明治の初國是として五箇條の御誓文を下し給えり。曰く、

一、広く会議を興し万機公論に決すべし

一、上下心を一にして盛に経綸を行うべし

一、官武一途庶民に至まで迄各其志を遂け人心をして倦まさらしめんことを要す

一、舊來の陋習を破り天地の公道に基くべし

一、智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし

 叡旨公明正大、又何をか加えん。朕にはここ誓いを新にして国運を開かんと欲す。すべからく此の御趣旨に則り、舊來の陋習を去り、民意を暢達し、官民拳げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以って民生の向上を図り、新日本を建設すべし・・・

 この詔勅が「人間宣言」と俗称されるのは、続く部分で、

 ・・・天皇を以って現御神とし、且つ日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにも非ず・・・

 云々とある部分によります。

 昭和天皇が敗戦直後のお正月にあたって「五箇条のご誓文」を引用しつつ「官民挙げて平和主義に徹し・・・」と詔勅を出したのには、

 『これからの「新日本建設」は、占領軍に押しつけられて無理やり国を捻じ曲げられるのではなく、明治大帝が維新の当初に立てられた宣誓である「五箇条」を、いよいよもって確かに継承、発展させるものであるから、民衆は離反せずに自分すなわち天皇とともに進んでほしい』

 というメッセージ、つまり占領軍がソ連の南下と日本の赤化を危惧し、戦争犯罪人として天皇を裁くことをせず、「象徴天皇制」という形で新たに温存しつつ、早急な国の再建を企図した経緯を直に反映すると考えて外れないでしょう。

 実際、日本国憲法の発布はこの年の11月3日。

 中華人民共和国の成立は3年後の1949年10月、朝鮮戦争の勃発は4年後の1950年6月と、はるかに後のことであって、占領国・連合軍の複数の思惑と綱引きのもと、第2次世界大戦後の日本を「上から」どのように再建するか、という典型的な『政治史』の文脈での再評価、と言うより位置づけで、それ自体がフィクションであることに注意しておくべきでしょう。

 どこかの国には子供の頃、可愛がってくれたお祖父さんが大好きな大臣もいるらしいですが、昭和天皇にとってはまさに「可愛がってくれたお祖父さん」が明治大帝にほかなりませんでした。

 明治大帝が維新当初に当たって立てられた建国の誓いは、あたかも

 「まさに外国から押しつけられたのではない、わが国固有古来の伝統」

 のごとく見えるかもしれませんが、その実、由利・福岡の草案に桂小五郎が詳細に手を入れて作成した大人の作文としての「五箇条のご誓文」は

 1つには、大政奉還以後の幕藩体制へのストッパーとしての太政官政府の思惑。

 いま1つには、10年前に押しつけられてしまった安政の不平等条約を何とか克服するため、近代国家として対等の関係を樹立するための基礎として準備された、まさに「内圧外圧とのぎりぎりのせめぎあいの中で成立した文書」であって、古来とか神祇とか誓うとかいった擬制はすべて横に置いておいて、冷静な政治の文書として読み解くべき必要があるものであるのが1つ。

 そして、そのような文書を、いまだ識字率が極めて低かった19世紀半ばの日本で、あたかも落語の「代書」でお客の「松本留五郎」氏が犯したような初歩的なミスを、無意識に、あるいは意図的に誤解誤読して、民衆が封建遺制のタブーをひっくり返していった、痛快な「ファクトとしての常民の歴史」をこそ、直視すべきだと私は思うのです。

 このような観点で金子兜太さんをはじめとする方々と進めているコラボレーション、新刊のCDブック「存在者・金子兜太」などの話題と併せ、稿を改めて考えたいと思います。

筆者:伊東 乾