「恋人のことは好きだけど、別れたい」とか「好きだからこそ別れたい」とか、そんな話をたまに聞く。言われた側は“ちんぷんかんぷん“だが、言う側には確信がある。

 

このまま未来を歩むのは、自分にとって(ひいては二人にとって)幸福ではない、と揺るぎない自信を持ってこの言葉を発するものだ。

 

言う側にはきちんと論理が存在しているのだが、それらがあまりに複雑なせいで、言われた側は理解することができない。意志ある理不尽とでもいうべきか。

 

恋愛ではたまに(もしかしたら、“よく”)こういう状況が訪れる。

 



 

「意志ある理不尽」をこれでもかというほどに見せつけてくる映画がある。

『スウィート・ノベンバー』だ。

Amazonより

出演: キアヌ・リーヴス, シャーリーズ・セロン, ジェイソン・アイザックス, グレッグ・ジャーマン, リーアム・エイケン
監督: パット・オコナー
販売元: ワーナー・ホーム・ビデオ 

あらすじは、こうだ。 ==仕事人間・ネルソンの前に現れた、サラ。行動や発言などすべてが風変わりなサラに警戒するネルソン。だが、サラは「わたしの“11月の恋人”にならない?」と話を持ちかける。「不幸な人を救うのが得意なの」とまで付け加えて。 携帯を捨てられ、腕時計を捨てられ、すべてサラのルールに従って生活するネルソン。次第にネルソンは本気でサラのことを好きになってしまうのだが、サラは「11月限定と言ったでしょ、そこで私たちは終わりよ」と言う。なぜ1ヶ月限定なのか?
サラに隠された理由は? 11月が終わる時、二人が迎える結末は……? == 夢見がちなラブストーリーと思ってぼんやり見ていると、二人がたどり着く結末にガツンと頭を殴られたような気持ちになる。 「理解できない」「意味わかんない」「ラストが最悪」と批判も多い映画なのだけれど、わたしには痛いほど突き刺さってしまった。(ネタバレをするので、どうしても知りたくない人は読み進めないように。ちなみにわたしはネタバレされてから観たのですが十分面白かったです)。 * この映画の肝は、ラストにのみある。もちろん序盤のサラの強引さとか、途中のサラがかわいいこととか、ネルソンが“早めのクリスマス”をするかわいすぎるシーンのこととかも語りたいけれど、究極を言えば、サラが「なぜ1ヶ月限りで恋人を変えているのか」はどうでもいいな、と思った。 理由はなんだっていい。 「誰かに覚えておいてほしい。美しいわたしを」という願望は、ものすごく人間らしくて、ありきたりでありふれている。  思っていた通り、ネルソンはサラを愛するようになった。そして思いの外、サラもネルソンを愛してしまった。 なのにサラは、自分が最後まで美しく生きられるために、約束通りの“別れ”を選んでしまう。 「側にいたい」と「愛している」という気持ちが足の先から頭の先までぴっちりと満ちていて、いまにも身体中がネルソンに引き寄せられてしまいそうなのに、それらを全部置いて、離れてしまう。 彼女の「好きだから別れたい」の理由は、「あなたの思い出の中にいる私が、いつまでも美しくありたいから」だ。これから壊れていく自分を見せるくらいなら、今の美しい自分だけを覚えていてほしい。 サラは、要するに今よりも“思い出(未来)”を選んだのだ。 *  「……解せない」 という声が、今にも聴こえてきそうである。  なぜ最後まで一緒にいなかったの? 愛があれば乗り越えられるのに?
それが愛でしょ!?
 心が健やかなひとはこう言うかもしれない。 心が自立している人なら加えてこう言うだろう。 いくらなんでも、自分のために人の気持ちを弄ぶなんてサイテー!
あんなの偽善者よ。振られる人の身にもなってみてよ。記憶に残りたいなんて図々しい。
 そのいずれも「その通りよね」と思う。  けれどどうしてもわたしは、サラを責めることなんかできないし、むしろ「よく頑張ったね」と言いたい。自分の気持ちに背いてまで“在りたい姿”を追求できるほど強い人はなかなかいないし、誰かの記憶の中でだけでも美しくありたいと願うほど弱い人のことはよくわかる気がするから。 サラのような事情がなくとも、こういう人はたくさんいる。 「いつか別れる日がきてしまうから、楽しい今のうちに、別れたい」「いつか嫌われるくらいなら、彼がわたしを好きな今、別れたい」 もっと状況を限定しよう。 「(このまま一緒にいるとわたしは彼に甘えて嫌な女になってしまう。その前に)別れたい」「(ものすごく好きだけど許されない恋なので、泥沼になる前に)別れたい」 どうして自ら傷つきにいくのか、どうしてそんなに今を怖がるのか、と思うけれど、彼らは「美しい未来=思い出」を大事にしたい人たちなのだ。 それほどに、今を愛していると、言ってもいい。 * おそらくこの映画を普通に見ていると、いつの間にかネルソンに感情移入してしまうことになる(映画がそういう作りになっているから)。そして最後にはひどく傷つき、無力感を味わうことになると思う。 でも、人にはいろんな形の「愛」があることも知っておく必要がある。相手がそう望んでいるのなら、必ずしも側にいるだけが愛ではない。(500)日のサマーと同様に、サラは誠実だった。「側にいたい」というのは、残される者の願望にすぎない。 どうして、どちらも苦しんでいるんだろう。どうして物事は単純に進まないのだろう。どうして好きな人と一緒にいるだけじゃいけないんだろう。なぜ「別れるのが愛」なんていう状況が生まれるんだろう。 いろんな愛の形があるものだと、泣きたい気持ちになった。なにも正解じゃなくて、だれも答えを知らない、というような気分。 そして世の中で何度もこういうことが起こっていると、思った。非現実的なんかじゃない。こういう恋愛の終わりは、散々目にしてきた。 * 「この映画最悪!」と思う人もいれば「じーんとする……」という人もいるだろう。ここまで真っ二つに意見が分かれそうな映画も珍しい(と、個人的には思う)。「好きだけど別れたい」を理解できない人にも、「好きだから別れたい」で心揺れる人にも見てほしい。 観たあとは気持ちをごっそり持って行かれるので、紅茶を用意するのをお忘れなく。

●さえり●
 90年生まれ。書籍・Webでの編集経験を経て、現在フリーライターとして活動中。 人の心の動きを描きだすことと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。
好きなものは、雨とやわらかい言葉とあたたかな紅茶。 Twitter:@N908Sa (さえりさん) と @saeligood(さえりぐ)