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text:Steve Cropley(スティーブ・クロプリー)

 

DB7へゲイドンに向かう

後半、まず最初の局面は、ニューポート・パグネルからゲイドンへ。乗り込んだDB7 V12は個人所有者を借り受けたもので、2001年末に購入したという2002年式。

当時、オーナーはファクトリーに通い詰め、4日半に渡り自分のクルマが造られる全工程を写真に収め、工場の職人たちとも顔なじみになったという強者だ。

16年を経たDB7には、そんなオーナーの気性が反映されていた。塗装は今なお輝き、インテリアに傷みは見られず、機械面のコンディションなど新車以上といってもいい。サスペンションはGT仕様に、ホイールとタイヤは後期型のものに、それぞれ交換されている。

それは極上の個体だった。フラットライドで快適だが、おそろしく速い。とりわけ、発進加速はみごとだ。トランスミッションはオプション扱いだったZFの5段ATで、ステアリングホイール上のボタンで操作できる。オーナー曰く、いつもこのボタンでシフト・チェンジを行っているが、レスポンスは驚くほどいいという。確かにその通りだった。

昨今のDB7はアストンの気軽なエントリー・モデルとなっているが、今回のように程度が極めていい個体は価格が高騰しつつあり、今後も上昇が見込まれる。

DB7が現役だった頃は、アストンの幸せな時代でもあった。ボブ・ドーバーの指揮下で、わずかな生産規模で四苦八苦していたメーカーから、成功を収めたスポーツGTブランドへと変貌を遂げたのだ。

DB7は登場から10年で、それまでの最多となる7000台以上が世に送り出され、市場は拡がり、利益を得ることもできるようになった。

周知の通り、DB7のスティール製構造体はジャガーのそれをベースとしており、デザインはトム・ウォーキンショー率いるTWR在籍時のイアン・カラムが担当した。

エンジンは直6時代とV12時代があり、クーペとオープンのほか、ザガート製ボディも製作された。このクルマとフォードの出資がなければ、アストン マーティンは現在にまで永らえることは叶わなかったに違いない。そしてこれが、ゲイドンの新居でDB9開発に取り組める勢いにもなったのである。

そのDB9へ、ゲイドンへ向かう道中に乗り換えた。

DB7からDB9へ

黒い2005年式で、5万kmを走行したこれもオーナーカーだ。持ち主はかつて空軍に籍を置き、今は障害者スポーツ大会の運営や家の修繕を手掛ける傍ら、AMOCのコンクールで審査員を務める人物だ。

そういうオーナーのクルマを形容するときは気を遣う。「パーフェクト」では十分ではないのだ。この個体はコンクールでは入賞の常連で、他のクルマにも機会を与えるべく、敢えて出品を見送ることもあるというレベルなのだから。

とはいえ、オーナーはこのクルマを日頃からハードに使っている。エンジンを掛けさせてもらうと、自然吸気V12の始動は良好で、グレートなエンジン音を発し始めたのがまざまざと思い出される。

こうしたクルマを運転する際には、しみひとつない内装を汚したり、前走車に近付きすぎて跳び石を喰らったりしないように注意するものだが、それでも今回のクルマたちでのドライブは至福の時間だった。

まるで新車かと思うようなコンディションで、生産されてから経た年月を忘れてしまいそうなのだ。このGTとしての万能性と、安心感と長距離での快適性に満ちた低いドライビング・ポジションを忘れないためにも、年に1〜2度は乗せてもらいたいものである。

ブロクスハムからゲイドンへは、DB9のようなクルマにとっては目と鼻の先みたいなものなので、束の間ペースを上げ、郊外の道を楽しんだ。

ここは英国特有のくぼみだらけの細い道ではない。まさにこういう道で、アストン マーティンは育ったのだから、進化を味わうにはもってこいだ。クルマの母国を走る際の、それこそが恩恵である。

程なくして、われわれはゲイドン本社のゲートをくぐり、黒光りするDB9を、その後継車の隣に停めた。ウェールズへ向かう、次のセクションの相棒となるクルマの横に。

DB9からDB11へ

次に乗り込んだDB11は、アストンが所有する初期生産車のうちの1台で、開発のためにさんざんしごかれたクルマだった。彼らに言わせれば、デモカーの第一陣は「すべてをこなした」そうで、テレビの自動車番組でその姿を見たことがあれば、どのような目にあったかは想像に難くないだろう。

われわれのルートは高速道路を走り、途中ブリストル運河を渡り、カーディフ空港裏の細道を通る250km弱。乱暴なテレビ・ショーに比べれば、どうということはない。

それでも、DB11は初めて運転したかのような興奮をもたらしてくれた。座面は非常に低く、わずかとはいえ高さを上げなければならなかった初めてのアストンとなった。それが、このクルマを大きく感じさせ、実際、DB9より多少ながら全方位に拡大されている。

ところが走るほどに、それが小さく感じられるようになる。目的地に着く頃には、クルマとの一体感すら覚えていたのだ。

セント・アサンの新工場建設用地には、ただただ驚かされるばかりだ。C130輸送機が6機は収まるだろう巨大な格納庫が3棟も、空っぽのままで建っているのだ。これを桁外れの自動車工場へ改築しようというのである。

訪れたときは着工されて間もなくだったが、そのポテンシャルは一目瞭然。アストンの配慮で、見渡すような格納庫の中央に、あの衝撃的なDBXコンセプトが置かれていたのを前にしたときは、感激に目が潤んでしまった。

この場にライオネル・マーティンがいたならば

この場にライオネル・マーティンがいたならば、壮大な空間をどのような姿に作り替えるのだろうか。彼とアンディ・パーマーがディナーで席を同じくしたら、どのような将来を語り合うのだろうか。そんな想像を、広い空間いっぱいに膨らませる自分がそこにいた。

この特別な一日に運転したクルマたちの中で、最も洗練されていたのは、やはり最新のDB11だった。

ロード・テストでは、熟練のテスターたちが敏捷性を強調していたが、それは間違いない。しかし、個人的に最も感銘を受けたのは、その乗り心地である。

フラットで、落ち着きある減衰をみせるのだが、その一方で並外れたボディ・コントロールを可能にする硬さを、サスペンションの一番ソフトなモードでも持ちあわせているのだ。加えて、バンプを乗り越える際の静粛性は、スポーツカーではなかなか得がたいレベルにある。

セント・アサンでのDB11との別れは、この上ない悲しみを伴うものだった。ゲートを後にして、激しく後悔した。このスペシャルなブランドの歴史を一日で追うという趣旨だったとはいえ、104年間の最高傑作との別離に代わるラストシーンはなかったものだろうか、と。