零細町工場を支えていた頃の筆者の父親

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 日本のモノづくりを支える、町工場。家業が町工場であった筆者の周りには、物心つく前からトラックと砥石と真っ黒な父親の存在があった。

 母親も父親と同じ工場の経理として毎日夜遅くまで働いていたため、筆者はいわゆる「鍵っ子」だったのだが、通っていた小中学校が工場から近く、放課後はその工場に帰っては、働く大人を観察していた。ゆえに、筆者の零細企業デビューはかなり早い。

 約30年間、1つの工場を微力ながら見守ったのちに海外に住む今、昨今の日本に思うことがある。今回から3回に分けて、「日本のモノづくりを支える職人」について綴っていきたい。

 筆者の父親は、小さな工場を経営していた。

 「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」だ。これは筆者のまこと勝手な線引きだが、始業前にラジオ体操がある規模は「こうじょう」、ないのは「こうば」。父の会社には、ラジオ体操どころか、ミーティングさえもなかった。テニスコート2面ほどの作業場に、最盛期は従業員約35人。海外に支社を作った時期もあったが、訳あって数か月で畳むことになる。

 従業員には2種類のタイプがいた。第1に「昔のヤンチャ」、第2に「つい最近までのヤンチャ」。35人中34人が男性で、残りの1人は掃除のおばちゃんだ。

 彼らの愛車が織りなすエンジン音とヒップホップの音楽は、毎朝100メートル先の信号あたりから誰が通勤して来るのか教えてくれる。坊主からリーゼントまで、ヘアスタイルも個性豊かで、おかげで遠くからでも誰がどこにいるか、すぐに判別ができた。

 そんなヤンチャたちだが、彼らは一度仕事にかかると、大変真面目だった。その理由は、社長が大昔、誰よりもヤンチャだったことに加え、彼らには「一人黙々と作業をする素質」がある、というのが大きいところだろう。

 父の工場の業務内容は、金型研磨だった。その詳細は次回述べるが、この仕事で一人前になるまでには、最低10年はかかる。つまるところの「職人業」だ。

 職人とはいわずもがな、熟練した技術でモノづくりする人達のことである。

 父の下で働くヤンチャ達は、トラックドライバー以外、職人か職人見習いだった。鉄の塊相手に、油と砥石に手がまみれ、金型の角に手をかけては絆創膏1箱使っても足りないほど出血することもしばしば。末端の孫請けゆえ、納期絶対厳守の、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)。父の工場においては、これに「細かい」がつき、4Kともいうべき環境だった。

◆「作業服とタイムカードは黒いほうがいい」

 伝統工芸職人はその技術や作品に魅了され、その道に入るが、工場職人への入り口は、もっとシンプルなことが多い。

 父の工場では、年中従業員を募集していた。その度にやって来るヤンチャが差し出す履歴書の志望理由には、「求人広告の一番上に載ってたから」「家が近かったから」という字が堂々と書かれていた。

 時折、「日本のモノづくりの一端を担いたい」と饒舌に語るスーツ姿の兄さんがやって来ることもあったが、実際こういう人ほど、「親戚が亡くなった」で欠勤が何度か続き、やがて来なくなる。その度に社長は「何人親戚殺すねん」とタバコの煙に目を細め、ぼそっとつぶやくだけだった。

 筆者は仕事柄、現在も多方面の職人と話す機会があるが、彼らには大きな共通点がある。

 自分の仕事に人が介入することを超絶に嫌うのだ。協力し合うことが苦手な代わり、受け持ったからには、最後まで1人でやり遂げる。が、やりたくない仕事は絶対にやらない。こうもプライドが高いゆえ、こちらの意見はなかなか聞いてはくれない堅物が多いのだが、この「オレの道」を「美徳」と位置付ける一匹狼型のヤンチャは、自然と工場職人という道に吸い寄せられるのだ。