和歌山県海南市の平和酒造の四代目、山本典正専務。

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若手ビジネスパーソンが同郷の経営者から学ぶ「わかやま未来会議」。第7回のゲストは平和酒造の四代目・山本典正専務だ。同社では、蔵人の正社員化に踏みきり、経験と勘に頼っていた酒造りに「マニュアル」を導入。理論派の酒造りは、日本酒にも造詣が深い元サッカー日本代表の中田英寿氏の目に留まり、さまざまなコラボレーションにつながっている。
現在、日本酒の輸出額は約100億円。フランスのワインは約1兆円だから、まだ100分の1に過ぎない。山本専務は「フランスワインなみの1兆円産業に」と意気込む。日本酒が世界に飛び出すために、いまなにが必要なのか。「わかやま未来会議」での熱弁を再現する。

■むかしは「パック酒」が99.9%の蔵元だった

私は和歌山県海南市の平和酒造の四代目です。江戸時代創業の蔵元が珍しくないこの業界で、昭和3年創業の平和酒造は歴史の浅い蔵元だと言えます。

関西には灘、伏見という2大銘醸地があるため、和歌山の日本酒はなかなか売れませんでした。祖父の時代までは伏見の蔵元の下請けで細々と商いを続けていました。地元の人でさえ、小学生の私が「うちの日本酒、買うてくれへん」と頼んでも、「ボク、ごめんな。おっちゃんは灘、伏見のいいとこの酒しか飲まへんのよ」と言われるくらいでした。

昭和55年に酒蔵を継いだ父は100%下請けで生計を立てることが大変だったので、食べるために夏は米作りをしたり、酒屋として大手ビール会社のビールを売る仕事も始めたりしましたが、昭和60年ごろからDS(ディスカウントストア)が台頭し、圧倒的に安くビールを売るようになると方向転換せざるを得なくなりました。

父は日本酒をパックに詰め、大阪のDSに売り込みに行くようになりました。でも「大手や新潟の蔵元より100円安く売らんか」と言われ、次に顔を出すと「売れんかったぞ。150円安く売らんか」と厳しく値引きを迫られます。そこまでの価格条件をのめなかった父が「どうしたら買ってくれますか?」と聞くと「今、梅酒の人気が出始めているから、パックに詰めてもってきて」と言われ、持っていくとこれはよく売れました。

大学を卒業し、人材ベンチャーに勤めていた私が、実家に戻ったのは2004年のことです。中学生のときから将来は経営者になりたいと思っていましたから、戻る直前から100項目ぐらいの「やりたいことリスト」をつくってわくわくしていました。当時はパック詰めのお酒が99.9%の蔵元で、実家から離れていた10年間に平和酒造の日本酒の値段はどんどん安くなっていました。いろんな改革が必要でしたが、やはり一番には「いいお酒をつくりたい」と思っていました。

たまたま実家に戻ったタイミングで梅酒ブームが起こり、当社の「鶴梅」がヒットします。取引先からは「ありがとう」と感謝され、人生を変えるような快感を味わいました。しかも「こだわりの日本酒をもってきてくれたらすぐに売ってあげるよ」とまで言ってくれたのです。

しかし3年ほどは持っていきませんでした。その間、蔵人とともに米を厳選し、大吟醸をつくっていましたが、「ありがとう」と言ってもらえるほどの出来栄えではなかったからです。蔵人には頭を下げ、パックの日本酒として販売しました。

■蔵人の正社員化で2000人の応募が殺到

昨年「酒-1グランプリ」で優勝した「紀土(きっど)」も、初めてつくったときは「まあまあ」の酒でした。でも、蔵人のメンツも立ててあげたかったので、取引先には「まだまだの酒ですが、これから頑張りますから、一緒に銘酒に育ててください」とお願いしました。「紀州」と「風土」で紀土と名付けたお酒でしたが、これからの成長の意味も込めた「kid(子ども)」をかけ、その後は取引先に宣言したとおり、どんどんブラッシュアップし美味しくなっていったのです。

平和酒造でさまざまな改革を進めるうえでよかったのが、父の時代に業界を先駆けて始めた蔵人の正社員化でした。

かつては蔵人、杜氏は半年の季節雇用が当たり前でした。仕込みは10〜11月に始まり、翌年3〜4月で終わります。ただ、和歌山の蔵だったことが幸運でした。夏場は梅酒づくりができたので、蔵人の通年雇用が可能だったのです。

蔵人の正社員化の利点は、日本酒を仕込んだ後の管理を任せられることや、販売後に取引先からの評判を聞けることです。季節雇用の時代は、蔵人がいなくなった後の管理を残った数少ない従業員だけでやらなければいけませんでしたし、仕込みが終われば帰参する蔵人がお客様からの反応を気にすることもありませんでした。

現在、当社は営業スタッフを設けず、蔵人がその役目を担っています。蔵人にとって自分たちがつくったお酒を美味しそうに飲んでいるお客様を見られるのは最高のご褒美ですし、お酒の感想を聞けるのですぐに自分たちの仕事にフィードバックできます。

蔵人の正社員化によって会社との一体感が高まり、またマーケティングの力も強くなったのです。

蔵人を正社員化し、職場環境をよくしたり、モチベーションを高めたりすることは大切でしたが、私は志をともにできる仲間もほしいと思っていました。そこで就活サイトをつかって全国の大学生に向けて求人を出しました。そのときは蔵元の求人がほとんどなかったこともあって2000人近い応募があり、驚くやらうれしいやら。

本当に優秀な学生が集まり、内定を出すときは、それこそ「一緒にいい酒づくりをしよう」「日本酒業界を変革しよう」とがっちり握手したほどで、これで平和酒造も安泰だと思いました。ところが、入社してしばらくするとその新人たちが次々と辞めてしまう。日本酒が好きで入ってきた人たちが「もう酒づくりは嫌だ」「日本酒なんて見たくもない」と言って退社してしまうのです。何かとんでもないことをしてしまったのではないかと悩みました。

■「マニュアル」で職人気質の文化を改革

一番の問題は社内に職人気質の文化が残っていたことです。新人の蔵人が酒づくりを学びたいと思って麹室に上がっていくと、ベテランの杜氏が「何しに来たんや」と言う。新人が「麹の仕込みを見たくて」と答えると「任せた仕事はやったんか」と。「やりました」と答えると杜氏は「なら、あの仕事はどうや」。「やっていません」と返事をすると、「それ終わらせてから上がってこい」。新人が仕事を終え、麹室に上がったときは作業が終わった後で、誰もいない。そんなことが何回か続くと、新人は「教えてくれる気はないんだな」とわかります。

昔は季節ごとの契約だったため、ベテランが自分より給料の安い若手に技術を教えてしまうと、翌季は自分がお払い箱になってしまうので、教えることはなかったのです。

まず、ベテランに対して、うちは正社員雇用しているから今までの職人気質の文化を変えていかなければならないと教えるところから改革を始めました。その後、新人が最も知りたいと思う麹やもろみの仕込みに関する情報を開示し、日本酒の製造マニュアルを整理しました。こう言うと「マニュアルで仕込むんですか」と聞かれることがありますが、基本的なことをマニュアルで共有すれば、時間に余裕ができて他の技術が向上していく。今まで10年かかった技術が3年で身につくこともあるのです。

日本酒業界は国内出荷量が1972年をピークとして45年間縮小してきた長期衰退産業です。日本酒にまつわるフレーズは、肉体労働、中小企業、地方などネガティブなものが多いのですが、見方を変えればチャンスがあります。

今一番やりたいのは日本酒の価値のイノベーションです。同じラベルでも、ガード下で飲むのとNYのスタイリッシュなバーで飲むのとでは見える世界が違います。もちろんガード下で飲むのも楽しいし、実際自分も好きで飲みに行きます。だけど、日本人の日本酒に対する固定観念を壊したいと思っているのです。

私が2015年から青山ファーマーズマーケットで「AOYAMA SAKE FLEA」を主催してきたのも、東京のおしゃれな街で、日本酒が素敵な飲み物であることを体験してもらいたいから。20代、30代の若い蔵元に呼びかけて、2000〜3000人のお客さんを集めました。ほかに和歌山県立近代美術館とのコラボなど、これまでになかったシチュエーションで日本酒を楽しんでもらうイベントを仕掛けています。

また海外でのPR活動にも力を入れています。元サッカー日本代表で日本酒にも造詣の深い中田英寿さんと一緒にイタリアへ行き、日本酒を宣伝してきました。日本酒の輸出が伸びていると言われますが、まだまだです。フランスのワイン輸出額が年間1兆円規模なのに対して日本酒のほうは100億円ほど。もし日本酒がフランスワイン並みの1兆円産業になれば、日本の農家も潤います。私はそこに大きな価値を感じています。

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山本典正
1978年、和歌山県生まれ。京都大学経済学部を卒業後、東京のベンチャー企業を経て実家の酒蔵に入る。大手酒造メーカーからの委託生産や廉価な紙パック酒に依存していた収益構造に危機感を覚え、革新的組織づくりと、自社ブランドの開発・販売に力を入れる。また、全国の若手蔵元の協力のもと、日本酒試飲会「若手の夜明け」を立ち上げるなど、日本酒業界を盛り上げるために奔走。著書に『ものづくりの理想郷』、共著に『メイドインジャパンをぼくらが世界へ』がある。
 

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(平和酒造 代表取締役専務 山本 典正 構成=Top Communication 撮影=向井渉)