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 フランソワ・トリュフォーの長編初監督作品『Les Quatre Cents Coups』(59)の邦題を『大人は判ってくれない』とした違いは、本作の原題『The Edge of Seventeen』を『スウィート17モンスター』としたことにどこか似ている。それは、それぞれが意味する“立場の違い”という点に現れているように思えるのだ。

参考:H・スタインフェルドがシュワルツェネッガーと比較? 『スウィート17モンスター』本編映像

 『大人は判ってくれない』というタイトルは、“いつの時代も、大人は自分たちのことを理解してくれないもの”という若者側の漠然とした共通認識に基づいている。一方で、原題の『Les Quatre Cents Coups』には、“悪さをする”という意味合いが(直訳では“400回の殴打”)あり、つまりは、大人側から見た若者たちの状態が表現されている。

 同様に、『The Edge of Seventeen』という原題が、“崖っぷちの17歳”という若者側から見た自分たちの状態を表している一方で、『スウィート17モンスター』というタイトルは、大人側から見た若者たちの姿を表しているのだと解せる。

 また例えば、原題と同じ意味を持つジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』(55)=『Rebel Without a Cause』の場合は、“若者たちのことが理解できない”という大人側の視点なのだと言えるし、“反抗する理由が説明できない”という若者側からの視点だとも言える。つまり「反抗」は、双方にとって理解できないものなのである。

 これらはほんの一例に過ぎないが、青春映画の多くは、大人側と若者側の考え方や価値観が「相容れない」或いは「相違がある」と描くことを基本としてきた。そして、若者たちには若者たちの暮らす世界における慣習やルールがあり、その中で苦悩し、ひたすら踠き足掻いているとも描いてきた。つまり、若者には若者なりの「理由」があるにもかかわらず、まさに「大人は判ってくれない」と映画は描いてきたのである。

 かつては自分自身も若者であったはずなのに、大人になると何故か若者のことが理解できなくなる。それは「今どきの若者は」という常套句が示すように、大人の誰しもが感じることなのではないだろうか。

 『スウィート17モンスター』の脚本は、これが監督デビュー作となったケリー・フレモン・クレイグによるもの。若い観客の多くは、ヘイリー・スタインフェルド演じる主人公・ネイディーンのこじらせぶりに共感するだろうし、一方で大人の観客の多くは、ネイディーンの行動の全てが間違っていると感じるに違いない。同じ映画を見ているはずなのに、年齢が異なると映画に対する感じ方も異なる。本作の脚本は、観客の年齢層の“視点の違い”によって、見え方が異なるという点で秀逸な構成になっているのだ。

 17歳のネイディーンは「キスの経験もないイケていない女子」という設定。友人は幼馴染みのクリスタだけ。最大の理解者だった父親を幼い頃に亡くし、常に母親や学校の教師を困らせるような存在として描かれている。そんな彼女には、イケメンで成績優秀、スポーツマンで人気者という兄・ダリアンがいる。全てを持ち合わせている兄に対して、強いコンプレックスを抱いているネイディーン。しかし事も有ろうに、親友・クリスタと兄・ダリアンが肉体関係を持ち、ネイディーンの意に反してふたりは恋に落ちてしまう。彼女は自分か兄かどちらかひとりを選ぶようクリスタに迫る。他人の恋心を理解できず、やがてクリスタと絶交してしまうネイディーンは、次第に孤独を深めてゆくのである。

 1980年代以降のハリウッド青春映画では、<スクールカースト>と呼ばれる学校内での階層が如実に描かれるようになったという経緯がある。その代表格として挙げられるのが、『すてきな片想い』(84)や『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(86)、『恋しくて』(87)など、ジョン・ヒューズが脚本を手掛けた作品群。これらの作品の主人公は、<スクールカースト>の下層側に位置するという共通点があった。彼らは自らの境遇をひがみ、<スクールカースト>の上層にいる人気者たちを忌むべき存在として認識。決っしてお互いが「相容れない」或いは「相違がある」と描くことが基本となっていた。つまり、「大人は判ってくれない」だけでなく、そもそもの問題が、同年代の間に介在する<階層>にもあるのだと描いていたのであった。

 当時のハリウッド青春映画では、<スクールカースト>の下層に位置する者たちは経済的にも恵まれておらず、対して上層に位置する者たちは往々にして富裕層であり、彼らは概して「いけ好かない奴」として描かれていた。当然のごとく、彼らが「下層に位置する同級生たちを見下す」という対立構造を生み出していたのも特徴だった。

 先述のジョン・ヒューズが監督・脚本・製作を兼任した『ブレックファスト・クラブ』(85)では、スポーツマン、秀才、不良、お嬢様、ゴス、という本来であれば全く接点のない5人の男女が登場する。この映画では、<スクールカースト>の縮図のような設定を持った5人に対して、「懲罰登校」という接点を持たせることで、階層の異なる者同士が次第にお互いを理解してゆくという姿を描いた点で異色だった。

 『スウィート17モンスター』では、主人公・ネイディーンが<スクールカースト>の下層、彼女の兄・ダリアンは上層に位置していることが窺える。その設定によって、ダリアンはこれまでのハリウッド青春映画のセオリー通り、当初は「いけ好かない男」として描かれている。同様に、ウディ・ハレルソン演じる教師もまた、当初は「若者に理解のない大人」として描かれている。

 ここまでは、これまでのハリウッド青春映画群と同じような描かれ方なのだが、『スウィート17モンスター』が少し異なった趣を持っているのは、物語が進むうち、其々の立場における其々の事情や想いが明らかになってゆくという点にある。ダリアンは決っして「いけ好かない」兄などではなく、むしろ思慮深い兄であることが描かれ、ネイディーンにとっての根本的な問題が、<スクールカースト>における他者にあるわけではないことも判ってくる。さらには、教師の姿を真摯に描いてゆくことで、「大人は判ってくれない」のではなく、「大人は判ろうとしている」ことも提示してゆく。

 そのように描くことで、若い観客は次第にネイディーンのこじらせぶりに違和感を覚えはじめ、大人の観客は(過去のハリウッド青春映画群を参照した)ステレオタイプな物事の見方をしている己の思考の間違いに気付いてゆくという構成になっているのである。

 ここで注目すべきは、本作で大人側の視点と若者側の視点のパイプ役を果たしているネイディーンのクラスメイト、アーウィンの存在。彼がネイディーンに好意を持っているのは一目瞭然で、そのことをネイディーン自身も気付いているという設定。アーウィンが「映像制作に興味のある垢抜けないアジア系男子」であるとことによって、彼が<スクールカースト>の下層側の人間なのだと彼女に思わせるのである。結果、ネイディーンは校内のチャラいイケメンに熱を上げる。このチャラいイケメンも決っして「いけ好かない」だけの男ではなく、ネイディーンにも負があると描いている点も秀逸。

 アーウィンのバックグラウンドや内面性が明らかになることで、ネイディーンの視点も徐々に変わってゆくのだが、ここで重要なのは、ネイディーンの内面は変化してゆくけれど、アーウィン自身は何も変わっていないという点にある。つまり、アーウィンの立ち位置は常にニュートラルで、彼の姿はこの映画における対立構造の標準器のような役割になっているのだ。

 『スウィート17モンスター』は、いつの時代も「大人は判ってくれない」という普遍的な題材を扱いながら、同時に<多様性>という時代の変化も描いている。例えば、80年代のハリウッド青春映画群であれば、ネイディーンを救うのは<スクールカースト>の上層にいる美男美女の白人という設定の理解者だったのだが、本作ではその役割をアーウィンという垢抜けないアジア系の若者が担っている。アジア系の(しかもイケていない)男子が、お姫様を救う王子様的な役割を果たすという時代の変化は、大いに指摘されるべき点だといえる。

 本作の中で、兄・ダリアンが不平不満を募らせたネイディーン向かってこう言い放つ場面がある。

「人生というのは不公平なんだ」

 そのことに気付く若者はなかなかいないし、実はそのことに気付かない大人も多い。人生は基本的に不公平なのだと気付けば、人を羨んだり妬んだりしなくなるのではないか? とこの映画は諭している。そして、誰かのために自分が少しだけ損をしてみるのも悪くないのではないか? とも諭している。

 『スウィート17モンスター』は、若い観客と大人の観客が異なる視点で物語と対峙しながら、最終的には同じ感動に着地するという難易度の高い技をみせてくれる。そこに横たわるものが、お互いに寄り添ってゆく「相互理解」であることは言うまでもない。それは、今のアメリカという国の政治にとって、一番足りないものではないか? とも思わせるに至るのである。(松崎健夫)