『T2 トレインスポッティング』

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 94年4月にカート・コバーンが自ら命を絶ち、5月にはアイルトン・セナがレース中に事故死。翌95年1月には阪神・淡路大震災が起こり、3月にはオウム地下鉄サリン事件があった。世界は順調に終わりに向かっているように思えた。少なくとも、当時20代だった自分にとっては。そして迎えた96年11月。『トレインスポッティング』が日本で公開されたのは、そういうタイミングだった。ままならない日常、見えない将来、そして腐れ縁の仲間たち。それらをひっくるめたこのクソ社会から、ひとり軽やかに逃げ出してみせること。そう、合言葉は、「未来を選べ!」だった。

参考:『トレインスポッティング』から『T2』へーー描かれる“希望”はどう変化した?

 前作『トレインスポッティング』から20年後の世界を描いた『T2 トレインスポッティング』。20年という歳月を、これほどまで有効に用いた映画は、ほかに例がないのではないだろうか。否、ひとつだけあった。『ビフォア・サンライズ/恋人までの距離(ディスタンス)』(1995)から『ビフォア・サンセット』(2004)を経て、『ビフォア・ミッドナイト』(2013)へと至る、イーサン・ホーク&ジュリー・デルピー主演、リチャード・リンクレイター監督の一連の映画だ。とはいえ、恋人から夫婦となり、やがて親となる男女の物語を、約10年ごとに定点観測したリンクレイター作品に対し、いきなり20年後の世界を描く『T2』は、いかにも唐突だし、かなり異常な事態だとは言えるだろう。当時の熱狂を考えれば、なおさらのことだ。

 それにしても、時間というのは、とても残酷なものだ。ダニー・ボイル監督のもと、オリジナルキャストが勢ぞろいした『T2』のファーストカットを最初に見たとき、彼らとほぼ同世代である自分は、「ああ、みんな元気でやっていたのか」と感慨深く思うと同時に、その顔面に刻まれたシワの数々に、「時間というのは、本当に残酷なものだな」と率直に思った。正直、「観たいか?」と問われたら、即座に「観たい!」と応えられなかったのだ。まあ、若い頃に熱狂したバンドが突然再結成したようなものですよ。無論、こちらも若くはないけれど、ノスタルジーに生きるほどには年老いてないつもりだし、時間の残酷さについては、毎朝鏡を見るとき……とまでは言わないけれど、たまに会う同級生たちの姿だけで、もうお腹いっぱいです。

 けれども、時間というのは、果たして残酷なだけなのか? 恐らくそれが、この『T2』という映画の最も肝要なところであり、個人的には最も感動的なところだった。そう、結論から言うと、この映画には観る者を奮い立たせるマジックが、間違いなく宿っている。つまり、リアルタイム世代は必見だ。物語以上に、その大胆な映像表現と音楽の秀逸な使い方が衝撃的だった前作のアプローチを踏襲しながらも、前作では取りこぼされたもの、あるいは敢えて目を背けていたものが、この映画にはしっかりと描き出され、なおかつそこにケリをつけようとしているから。「時間」の問題は、その最たるものだ。

 まず、今回の『T2』で描き出される、「時間」の効用について考えてみることにしよう。「時間」は、巷間言われているほどには、問題を解決しなかった。20年前に、仲間の金を持ち逃げしたレントン(ユアン・マクレガー)は、いまも仲間たちの不興を買っている。というか、レントンが再び故郷エディンバラに戻って、かつての仲間たちひとりひとりに直接詫びを入れに行くというのが、『T2』序盤のプロットだ。

 次に、「時間」は、巷間言われているほどには、人間を成長させなかった。酒にドラッグに女……あとはフットボール。エディンバラの享楽的な若者だった彼らは、20年後の今も、特段大したことにはなっていない。持ち逃げした仲間の金をもとに、アムステルダムで第二の人生をスタートさせたはずのレントンも、どうやら新生活が破綻し、再び故郷に戻ることを余儀なくされている。かつて、“シック・ボーイ”と呼ばれていたサイモン(ジョニー・リー・ミラー)は、叔母から譲り受けたパブを経営しながら、裏では恐喝に手を染めている。スパッド(ユエン・ブレムナー)は、いまだにドラッグがやめられない。ベグビー(ロバート・カーライル)に至っては、服役中である。まあ、相も変わらず、ろくでもない連中だ。

 けれども、彼らの故郷エディンバラは、「時間」によってドラスティックに変化していた。労働党政権の誕生から、ロンドン・オリンピックの開催。この20年のあいだに起こったイギリスの変化の波は、スコットランド、エディンバラにも届いていた。地域復興を促すキャンペーンガールが外国人であることを皮切りに、エディンバラのサウナ業界を牛耳るロシア人、そしてサイモンのパブを飲み込もうとしている再開発の嵐。時代の波に乗り損ねた彼らは、またしても時代から置いていかれようとしている。だが、その一方で、さらなる過去に固執する人々もいる。カトリックの支配を好ましく思わないプロテスタントの人々、いわゆる“ロイヤリスト”の面々だ。彼らはノスタルジーのなかに生きている。

 そこで、傍と思うのだ。「時間」とは、いったい何なのかと。その意味で、若い恋人に向けて、ドラッグ中毒だった自分たちの過去を語りながら、気が付けば現代特有の“中毒”について興奮気味に語り始めるレントンのシーンは、この映画の白眉だった。「未来を選べ」。かつての彼にとって至極命題だったテーマは、今どうなっているのか? レントンは舌鋒鋭く、ハイテンションで一気にまくしたてる。

 「フェイスブック、ツイッター、インスタグラムを選び、赤の他人に胆汁を吐き散らせ。プロフ更新を選び、“誰か見て”と、朝メシの中身を世界中に教えろ。昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。初オナニーから死まで、全部投稿しろ。(中略)過去の繰り返しをただ眺め、手にしたもので妥協しろ。願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。失意を選べ。愛する者を失え。彼らと共に自分の心も死ぬ。ある日気づくと、少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。未来を選べ」。

 それは、現代社会に対する痛烈な批判であると同時に、いつの間にか、そんな大きな流れに踊らされてしまった自分自身への懺悔でもあるのだった。「未来を選べ」。かつては魅力的に響いた言葉も、今となってはもう、選べる未来があるかどうかも定かではない。残酷なのは時間なのか。否、この世界そのものが残酷なのだ。では、どうすればいい? 結局のところ、その「残酷さ」を踏み越えて生きるしかないのだ。『トレインスポッティング』シリーズの実質的なテーマソングである、イギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」になぞらえて言うならば、“人生への渇望”。それがわずかでもある限り、僕たち/私たちは、この世界で生きていくしかないのだ。

 確かに「時間」は残酷だ。時間がすべてを解決するわけではないし、すべての人間を成長させるわけでもない。けれども、レントンは映画の最後、序盤では聴くことを躊躇したイギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」に合わせて、ひとり踊り出すのだった。「この場所」で、ひとり踊り続けることの意味とは何なのか。つまりは、訳知り顔で、「時間の残酷さ」を嘆いてみたところで、事態は何も変わらないということだ。そもそも、過去は言うほど甘美じゃないし、ノスタルジーに生きるには、まだまだ活力がある。そう、それでも人生は続いていくのだ。であれば、この場所で踊り続けるしかない。それは、小ぢんまりとしてなおかつダイナミックな、とても感動的なシーンだった。

 そう、監督や役者はもちろん、観る側もきっちり20年歳を取っているという事態が、この映画に奇妙なグルーヴを与えているのは、どうやら間違いのないことのようだ。というのも、作り手も観客も、20年という歳月の持つ意味を、その「真実」を知っているから。そして、そこからまた、さらに人生が続いていくことも。周知の通り、1999年、ひとまず世界は終わらなかった。無論、その状況は、ますますタフなものとなっているような気がするけれど。

 しかし、“人生への渇望”がある限り、この場所で踊り続けるしかないのだ。ときには逃げ出すのもいいだろう。けれども、残してきた過去は、決して消え去りはしない。要は、それといかに真正面から向き合うことができるのか。そして、それを踏まえた上で、どうやって一歩を踏み出すことができるのか、である。ダニー・ボイルとキャストたちが、それぞれの「20年」を持ち寄りながら、「時間」という有無を言わさぬ説得力によって軽やかに打ち放つそのメッセージは、必ずしも『トレインスポッティング』リアルタイム世代だけに響くものではないように思うのだが。若い人たちも是非一見して、その思うところを率直に綴って欲しい。

■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。