住友化学社長 十倉雅和

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■初の海外勤務は「屋根裏暮らし」

1994年12月30日、ベルギーのブリュッセル国際空港に着く。寒風が吹き、気温は、東京よりも5度ほど低い。年末年始の休暇旅行でも、急な出張でもない。2カ月前にブリュッセル郊外に設立された住友化学ベルギーに、副社長として着任するためだ。44歳。それまでに海外出張は何度もあったが、初の海外勤務だった。

赴任前の1年余り、大阪にある染料事業部門で、欧州事業の立て直し案づくりに参加した。かつて世界で優位にいた日本の染料事業は、85年の「プラザ合意」以降の大幅な円高で、価格競争力を失った。韓国や中国の安い製品の輸出拡大が続き、大型再編を済ませた欧米勢の攻勢も受け、減産を余儀なくされていた。

住化は、欧州ではパリやドイツのデュッセルドルフに駐在員事務所を置き、91年4月にはデュッセルドルフの事務所を現地法人に改組。ベルギーに倉庫も確保し、反転攻勢を狙ったが、はかばかしい成果は出ていなかった。

ただ、品質にはなお競争力がある、との自信があった。そこで、欧州に販売先への技術支援もする染料技術センターを持つ販売会社をつくり、顧客密着型の営業にして、打開を図る案が決まる。技術ラボを持つ欧州企業を調べ、ブリュッセルの広域染料販売会社のカパに照準を定めた。住友商事と共同で買収し、住商は同社の販売権を取得、住化はラボと事務所を手に入れた。さらに、カパから近いマヘラン市に、技術センターを持つ拠点をつくることにもした。

マヘラン市は、ブリュッセルの中心部から北へ車で20分。オランダや仏独と結ぶ高速道路に近く、ベルギーのアントワープ港なら約30分、オランダのロッテルダム港には1時間程度。欧州の2大貿易港に近い「物流の最適地」というのが、選定要因だった。

販売新社は、デュッセルドルフの現法の子会社の形で設立し、本社事務所は拠点が建つまでの間、カパの屋根裏部屋に置く。まずは秘書を雇い、2人分の机や電話を入れて、カパにいた女性2人を営業補佐に採る。染料ラボにいた技術者も雇い、あとは縁故で集めていく。日本からは、自分を含めて5人。総勢10人余りで、平均年齢30歳での船出だ。半年後に移った本社事務所は、広くはなったが、やはり倉庫を改造した元屋根裏部屋。いまでは4階建てビルが建っているが、帰国するまでの3年3カ月、「屋根裏暮らし」となる。

ベルギーでは、北部ではオランダ語、南部はフランス語を話す人が多く、従業員には双方がいたから、仕事は英語が共通語。ただ、決算の記帳などはオランダ語でなければならず、苦労した。苦労と言えば、車の運転もそうだ。3カ月後に娘2人とやってきた妻ともども、日本で免許を持っていなかった。でも、ベルギーでは車がないと、生活が成り立たない。内示段階で、夫婦で自動車学校へ通ったが、妻は平均的な時間と費用で免許を取得。自分は実技が苦手で、時間も費用も2倍かかる。

そうして赴任したら、ベルギーでは当時、運転免許がなく、車を買うと、そのまま道路に出て走れた。そのためか、運転が乱暴な人が目立ち、こちらは免許の取り立て。運転したら、後部座席に同乗してくれた人が、悲鳴を上げた。

日本から輸入した衣料品向け染料の販売と技術支援は、付加価値のある製品さえ用意すれば、韓国などの安い製品とは別の需要もあった。ただ、世界の繊維分野の生産拠点が中国へいき、染色事業も移っていく流れには、抗しきれない。そこで、半導体向けやタイヤ向けのファインケミカル製品にも手を広げ、軌道に乗せた。

■「化学の夢」を持ちいいリスクを取る

何もかもが、事実上「ゼロからの出発」で、苦労が多かった。でも、そんなことは、誰の前でも、おくびにも出さない。もちろん、成果をひけらかすこともしない。自慢も愚痴も嫌い。拠点の立ち上げに選ばれた身として、「仕事だから」と受け止めただけだ。

ただ、現地従業員との融和には、心を砕く。ボウリング大会などをやり、一緒にスケートやカラオケにもいく。日本から役員が出張してくる際には、日本的な土産をサンタクロースのように大きな袋に入れてきてもらい、ホテルで従業員全員が出る立食パーティーを開く。一緒に歌い、写真を撮り、盛り上がったところで、最後は福引。土産の品々を景品にして渡すと、歓声が続いた。担当役員の協力に、心中で手を合わす。いま、ベルギーはシンガポール、北京、ニューヨークとともに、海外の4大拠点の1つになっている。

「聖人、終不爲大。故能成其大」(聖人は終に大を爲さず、故に能く其の大を成す)──知徳が最も優れた人は、大きなことを成し遂げても、自身は大きなことをしたとは考えない。であればこそ、大きな仕事ができる、との意味だ。中国の古典『老子』にある言葉で、わずかなことをやって大仕事をしたような態度をとるようでは、本当に大きなことなどできない、と戒める。自慢にも愚痴にも無縁で、淡々と責務を遂げていく十倉流は、この教えに重なる。

帰国し、40代の終わりに電子材事業部門の部長となり、営業を担当した。入社以来、営業の第一線は初めてだ。だが、それも、8カ月で終わる。三井化学との事業統合の話が水面下で進み、技術・経営企画室部長に就き、統合協議の裏方のトップになったためだ。

01年4月、事業統合が発表される。業界大手同士の統合は、再編で規模がはるかに大きくなった欧米の化学メーカーを追撃する動きと、注目された。ただ、両社の歴史的な背景や企業文化には違いもあり、事業の構成や優先度にもずれが出て、03年春に撤回された。

それでも約2年間、事務局同士は全事業について様々な角度から論議を重ね、自社のいい点と足らない点を見つめ直すいい機会となる。これも「終不爲大」で、自慢も愚痴もなく、「思い出深い出来事」として胸の内に納めた。それが、いま社長になって、事業を再点検するうえで、貴重な経験となっている。統合がなくなり、執行役員になった後、いまや花形の電気自動車向けリチウムイオン電池の耐熱セパレーターや有機ELなど、先端技術分野で研究所と事業部の橋渡し役も務めた。これも、やはり、いま活きている。

ベルギーに赴任する前、世界の化学業界で大型再編が進み、日本勢は世界の上位10社に1つも入らなかった。それで「もっと規模の力が必要だ」と言われたが、社長になって、規模だけを追うことはしていない。それよりも、企業体質の強化に力点を置く。総合化学メーカーだから、いろいろな分野へ出ていくチャンスはあるが、総花的ではいけない。どこで勝負をするのかをちゃんと選ぼうと、中期経営計画でも掲げた。

日本の「ものづくり」に共通することだろうが、大切なのは、自分たちの技術の優位性で勝負できる分野に力を集中することだ。もちろん、それにもリスクは伴う。でも、ライフサイエンスや環境エネルギーなど、リスクの取りがいのある分野の地平は広い。もし、2025年に大阪万博の開催が決まったら、ライフサイエンスがメーンテーマになるかもしれない。就職時に感じた「化学の夢」の一端を、そこで披露できるかもしれないと思うと、胸が躍る。

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住友化学社長 十倉雅和(とくら・まさかず)
1950年、兵庫県生まれ。74年東京大学経済学部卒業、住友化学工業(現・住友化学)入社。98年精密化学業務室部長、2001年事業統合準備室部長、03年執行役員。04年住友化学に社名変更。06年常務執行役員、09年専務執行役員。11年より現職。

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(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)