『T2 トレインスポッティング』

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 90年代の若者文化を象徴する映画として、必ず挙げられるのが『トレインスポッティング』だ。『パルプ・フィクション』や『バッファロー'66』などと同様、アートワークや劇中音楽も含め、ファッションとして消費された面も大きく、本国イギリスを中心に世界各国でブームが起こった。当時の日本でも、「この映画を観なければ若者にあらず」というくらいの勢いがあったように記憶する。私自身、満員立ち見の熱気立ち込めるミニシアターの端っこに座って、この「イベント」に参加した一人だ。

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 あれから21年。監督のダニー・ボイルや脚本のジョン・ホッジなどのオリジナルスタッフ、ユアン・マクレガーやロバート・カーライルなどの出演者らが再集結して、ついに続編が撮られた。今となっては当時の観客も含めて、さながら同窓会イベントのようである。ここでは、一作目の『トレインスポッティング』と、本作『T2 トレインスポッティング』を比べながら、描かれていることの違いや意味について、できるだけ深く考察していきたい。

 『トレインスポッティング』は、スコットランドの首都エディンバラの不良青年、マーク・レントン、スパッド、シック・ボーイ、ベグビーらの、怠惰で破滅的で反社会的な日常を描いていく。失業手当などの社会保障を受けながら違法ドラッグを身体に打ち、ハイになって無意味な遊びを繰り返し、ドラッグを手に入れるため地元やロンドンでケチな犯罪に手を染める。彼らは、普通の生活、普通の幸福、普通の人生を拒否し、未来につながるあらゆる建設的な行動に背を向けているのである。そのような暗さや荒廃した雰囲気を観客に受容させていたのは、90年代という世紀末特有の終末感でもあった。荒っぽく見える編集や、「スコットランドで最悪なトイレ」に代表される、汚れて崩れ始めている壁に囲まれ閉鎖された情景など、映画の質感自体も、絶妙に物語の内容にマッチしていた。

 階級社会の英国で、首都とはいえ小規模な田舎街で貧しい家庭環境に育ち、コネも学歴も無い彼らは、真面目な態度で必死に働いたところで、輝かしい未来をつかむことは難しいだろうということを、親など周囲の大人たちの姿を見て理解しているはずである。最初から大きなハンデのあるゲームに参加するなどばかばかしい。だったらそこから降りて、一時的な快楽に身を任せていた方がまだマシだというのである。それは、彼らが劣っているからというよりも、むしろ繊細で洞察力がある証左だといえるかもしれない。「しっかり勉強をして安定した職に就き馬車馬のように働く」という保守的な社会通念や、そのような価値観を共有させようとする周囲の抑圧に反発を感じていた当時の私も、犯罪や違法ドラッグの使用はともかくとして、このようなレントンらの生き方に共感を覚えたところも多く、自分の物語として観ることができた。だからこの映画は、ある種の人間にとって、ただのファッションではあり得なかった。そして、アンダーワールドの『ボーン・スリッピー』をBGMに、全てを切り離して閉塞的な負のスパイラルから抜け出そうと踏み出す、ラストのさらなる逃亡に、漠然とした希望を与えられたのだった。

 『T2 トレインスポッティング』は、そんな希望が打ち砕かれるところからスタートする。オープニングでスポーツジムの会員たちと行儀よく並んで、ランニングマシンの上で走っているのは、ユアン・マクレガーが演じる、中年になったマーク・レントンである。前作のオープニングで、エディンバラの古い街並みを、社会の抑圧から逃れるかのように全力疾走する若々しいレントンたちの姿は、ここでは加齢による肉体の衰えに対抗するための、ありふれた努力に置き換えられている。レントンの脳裏に浮かんでいるのは、前作で希望を見出した瞬間の自分の笑顔である。

 エディンバラの友人たちを出し抜き、金を奪ってオランダで暮らしていたレントンが20年ぶりに故郷に戻ると、当時の不良青年たちは、精神的な成長はほとんど皆無なまま、ただ年だけを無駄にとっていた。何かを積み上げる努力を放棄して刹那的に生きてきた彼らは、いまだにドラッグやケチな犯罪に手を染める社会の底辺のスパイラルのなかでのたくっていたのだ。前作で、そこからかろうじて抜け出したかに見えたレントン自身も、やはりその渦の中に回帰していく。その反面、前作でケリー・マクドナルドが演じていた、私立学校に通っていたお嬢様ダイアンは、着実にキャリアアップを成し遂げ、未来をつかんでいた。レントンは、彼女が働いている職場まで顔を覗きに来るものの、もう住む世界が違うことを実感する。

 以前と決定的に違うのは、もう彼らに「未来を選ぶ」猶予などなくなっているということである。スパッドはドラッグから抜け出せず自殺を試みるし、ベグビーはEDに悩んでいる。レントンは、あの頃のままに残された自分の部屋で、一作目のアイコンとして機能していたイギー・ポップの『ラスト・フォー・ライフ』の収録されたレコードに針を落とそうとするものの、すぐに針を引き上げてしまう。若者だったときの彼らが怠惰でありながら、それでも光り輝いていられたのは、まだ未来が用意されていたからだ。スクリーンからあふれ出していた彼らの魅力とは、自分の未来を放り出す代償として得られた美しさなのである。本作で触れられている、ベグビーの父親のエピソードは、もう彼ら自身のエピソードそのものである。可能性が閉じられていくなかで、彼らが未来への希望を実感することなしには、レコードが回り出し、当時のような軽快な音が奏でられることはない。

 そのようなダメな中年たちのなかに混じってもがいている若者もいる。ブルガリアからスコットランドに出稼ぎにやって来た若い女性、ベロニカである。彼女の存在によって思い出すのは、英国が国民投票によってEUから離脱したという、実際の出来事である。EUにはルーマニアやブルガリアなどの、比較的貧しい国も加盟しており、そのような国から来た外国人労働者は、国内事情を悪化させる原因として、離脱派から槍玉に挙げられる対象だった。

 しかしイングランドとは異なり、スコットランドのなかでは、EU残留票が6割以上を占めたという。そして、この意見の違いをきっかけとして、スコットランドは一つの国となるべく独立へ向けた運動が加速している。「こんな場所はイングランドの子分のクソ溜めだ」と、前作でレントンに言わしめたスコットランドには、それが良いことにせよ悪いことにせよ、変化の兆しが生まれていることは確かである。そして本作は、ベロニカのような外国人労働者の未来に寄り添うことによって、前作とは異なる希望を与えられているといえる。

 第一作『トレインスポッティング』は、ダニー・ボイルやユアン・マクレガーたち若い才能が集まって完成させた、バンド初期の大名盤のような映画だ。様々な条件が後押しし、技術的に拙い部分すら良い方向に転がった、一度きりの過ぎ去った奇跡である。その後、ハリウッドで次々に映画を撮り、アカデミー賞で作品賞を含む8冠を制したダニー・ボイル監督も、同じくハリウッドでスター俳優に成長し、『スター・ウォーズ』新三部作でオビ=ワンを演じたユアン・マクレガーも、いまだに当時のインパクトを超えることはできていないと感じる。当時のレコードを鳴らすことができない演出というのは、作り手の意図に関わらず、結果的にそのような意味も付与されてしまっているように見える。

 そして、もし曲が鳴りだしたとしても、それは当時と全く同じ音ではあり得ないだろう。世界は変化し続けているし、スクリーンの向こう側の彼らも、こちら側の我々も日々変化している。本作で鳴らされる新しい音、そして新しい希望が気に入るかどうかは、『トレインスポッティング』に魅了されたことのある観客一人ひとりが、自分の心でそれぞれに判断すればよいことである。(小野寺系)