武田家の名軍師・山本勘助は、「第四次・川中島の戦い」において、自らの戦術(きつつき戦法)の失敗の責任を取る形で、援軍の到着を待ちわびる乱戦のさなか、波乱の生涯を閉じた。

 勘助が信玄に仕官したのは46歳の頃とされているが、当時の感覚では、ほとんど楽隠居でもしようかといった高齢であった。

 事実、同じ「軍師」として生きた黒田官兵衛は、44歳で家督を息子の長政に譲り自らは一線から退いていることからも、勘助の初就職がいかに異例であったかを推し量ることが出来る。

 今でいえば、「定年後」の年齢でありながら、ようやく世に認められた勘助にとって、信玄の覇業を補佐することはまさしく、初めて生き甲斐を感じられる日々であったことだろう。

 そう考えれば、勘助自身、楽隠居したいとか、安穏な日々を送りたいという願望は、持ち合わせなかったことが伺える。それどころか、死ぬ間際まで戦場にあって、己がこれまでの人生で培ってきた実力を試す機会を得たいと節に願ったことだろう。

 然るに、勘助の後世は、幸福に満ち足りた日々であったに違いない。

 「嗟呼、士は己を知る者の為に死し、女は己を説ぶ(よろこぶ)者の為に容づくる。」とは『史記・刺客列伝』の言葉であるが、信玄に認められ、「軍師」として頼りにされた勘助はまさしく、「信玄のために死ぬ」ことを切望したに違いない。

 人間は、己の価値を正しく評価し認めてくれる人のためには、どんなことでも出来るものである。

 「人に認められること」こそ、何物にも替え難い、人生の最大の幸福であることを、勘助はその生き様を通じて私たちに教えてくれているのである。

 そこには、「いかに幸福に生きるか?」という人生の課題の答えが確かにあるのだ。現代社会においても、これは変わらぬ真理であろう。