『夜は短し歩けよ乙女』(c)森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会

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 森見登美彦の原作小説を脚本・上田誠、監督・湯浅政明のコンビが映画化した『夜は短し歩けよ乙女』。同じ原作者、同じスタッフで2010年に放送された『四畳半神話大系』の“直系”ともいえる作品で、『四畳半神話大系』からさらに一歩踏み込んだグラフィックな画面づくりは、カラフルな色使いと相まってとてもキャッチーに出来上がっている。

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 一方で物語に目を向けると『四畳半神話大系』と『夜は短し歩けよ乙女』には、大きく異なるポイントがある。

 主人公“私”のとめどないモノローグが印象的な『四畳半神話大系』は、大学1年生の時に、どのサークルに入るかで運命が変わってくるパラレルな世界を描いていた。さまざまに分岐して伸びていく複数の直線をめぐる物語の、その中心には、作品を貫く芯棒としてどうしようもなく“私”がいた。

 それに対して『夜は短し歩けよ乙女』は円環のイメージで出来上がっている。舞台は、まるで1年にも感じられる長く不思議な一夜。夜は、そぞろ歩きのはしご酒から始まる。そして、古本市の古本が人々の間を巡り、学園祭のゲリラ演劇が学園祭事務局と追いかけっこを繰り返し、最後は風邪が人々の間を次々感染していく。この映画では人々はかならずどこかでつながっており、それがぐるりと大きな円を描いている。

 円とはつまり縁である。そしてその円=縁の上を軽快なステップで歩いていくのがヒロインの黒髪の乙女なのだ。

 では主人公の“先輩”はこの作品のどこに位置するか。本作における“先輩”は、円環の始まりと終わりに位置する結び目なのだ。実は、この映画は“先輩”から始まる必要はなく、どのキャラクターから始まっても、この映画の“円環”は成立する。そんな“円環”をなす群像劇の中にある任意の結び目として“先輩”は描かれている。

 強固な芯棒の“私”と群像の中のひとりである“先輩”ではそこが違う。もはや伝説的といってもいい浅沼晋太郎演じた“私”と、当代きっての人気者、星野源演じる“先輩”のトーンの差もまたそこから生じている。

 監督の湯浅政明は2004年の『マインド・ゲーム』で長編監督デビューを果たし、これまでにまとまった仕事として、TVシリーズを4作品、映画を2作品公開し、来月(!)5月には映画『夜明け告げるルーの歌』の公開も控えている。アニメーター出身で、『劇場版クレヨンしんちゃん』シリーズの初期作品での設定デザインなどで腕を奮ったことでも知られている。

 湯浅監督作品のキーワードは“魂の開放”。自意識や周囲の視線やいろんなものに縛られている人間が、ある瞬間、その枷から開放され自由になる。湯浅監督はそんな瞬間を描き続けているのだ。(『ピンポンTHE ANIMATION』の最終回で試合を通じて童心を取り戻していくペコとスマイルの姿を思い出してほしい)。

 そして『夜よ短し歩けよ乙女』にも“魂を開放”するシーンは存在する。しかも、そのうち1回はなんとミュージカル・シーンなのである。秋山竜次(ロバート)と星野源と花澤香菜と神谷浩史が繰り広げるミュージカル・シーンというものが想像つくだろうか? これが実に奇妙でかつ感動的でありながら、おもしろいのである。このあたりは、リアリズムから少しズレたグラフィックなスタイルを採用した本作だからこそ、うまくはまったシーンでもある。

■藤津亮太
1968年生まれ。アニメ評論家。著書に『「アニメ評論家」宣言』(扶桑社)、『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優語』(一迅社)がある。アニメ!アニメ!にてアニメ時評「アニメの門V」を連載中。titterID:@fujitsuryota