宮城県石巻市の市街地から車で40分ほどかかる雄勝半島の海辺に、その慰霊碑はあります。東日本大震災で64人が犠牲になったにもかかわらず、ここで起きた悲劇は世間ではあまり知られていません。それには、深い理由があるのです。誰も語ることができない。いや、語れば誰かが傷つく。いまは、海辺にたたずむ手作りの質素な慰霊碑だけが、その深い悲しみをひっそりと語り継いでいるのです。

副院長「入院患者を置いて逃げられない」

 小さな漁村だった雄勝町の海岸沿いには、かつて街で唯一の病院が建っていました。3階建ての最上階にある病室からは、窓いっぱいに雄勝湾を眺められます。映画のロケ地に選ばれるほど「絵になる」病院でした。

 その名は、石巻市立雄勝病院――。

 3月11日、3階建ての病院3階にあった40の病床は全て埋まっていました。大きな揺れの後、駐車場に集まっていた院長や副院長ら幹部に、山へ避難する近所の人が大声で避難を呼びかけました。

「津波がくっから、早く逃げろ!」

 病院のすぐ裏は山です。逃げようとすればいくらでも避難できたはずですが、副院長は「入院患者を置いて逃げられない」。そう言い残して院内へと消えていきました。

寒さに耐え、眠らないように掛け合った言葉

 目の前の防潮堤から海水があふれるように流れてきたのは、その直後のことです。津波は駐車場の車を流し始め、瞬く間に1階が水没し、すぐに2階も。入院患者は1人を除き、自力歩行できません。職員らはシーツの4角を握って患者を屋上へ避難させようとしていました。

「屋上に逃げろ!」

 副院長の言葉に、全員が屋上へと駆け上がります。それでも薬剤科部長ら4人は患者を運び上げようとしました。その患者を屋上に引き上げたとほぼ同時に、津波が屋上をのみ込んだのです。薬剤科部長はそこに横たわる患者の耳元で、こう叫びました。

「ごめんねえ、ごめんねえ!」

 次の瞬間、彼は黒い濁流にのみ込まれていったのです。

 職員たちは津波にのまれながら、流されてきた漁船や屋根に乗り移ろうとしました。白衣を着た何人もの看護師が、引きずられるように波間に消えていく光景を、すぐ裏山に避難していた近所の住人が目撃しています。屋根にはい上がったり、漂流物にしがみついたりした職員たちは、ジェットコースターのような引き波に翻弄(ほんろう)され、冷たい海原を漂流することになりました。

 同じ屋根につかまった女性職員2人は、流されてきた漁船に乗り移り、抱き合って励まし合いながら寒さに耐えていました。二人とも幼い子供と夫がいます。家族のことを思い浮かべながら、眠らないように言葉を掛け合いました。しかし、1人の意識がだんだんと薄れていきました。

 翌朝、沖に避難していた漁船に救助されて生還したのは1人だけ。ヘリコプターに救助された男性職員もいます。近づいてきた岸壁まで泳いで助かった看護助手もいます。

 助かった4人以外は、海にのまれたか、しがみついた屋根や漁船の上で亡くなりました。最後まで患者を助けようとした薬剤科部長も、漁船の上で亡くなったのです。

残された者と犠牲者が心を通わす場所

 近所に住んでいた非番の看護師は、駆け付けた病院で津波に流され、いまだに見つかっていません。そのほかの非番の看護師たちも病院に向かおうとしましたが、道路が寸断されており、自宅へ引き返しました。

 助かった職員たちは、患者を救えなかったという自責の念に加えて、同僚を失った悲しみと、「なぜ自分は生き残ったのか」という葛藤に苦しむことになりました。同じ漁船で流されていた同僚と生死を分けた職員は、さらなる重荷を背負うことになったのです。

 残された者が何かを語れば、誰かが傷つく。そのことによって自分も傷つき身動きが取れなくなる。マスコミから取材を受けても、みんなただ黙っているしかなかったのです。同じ南三陸の病院でも75人が犠牲となった公立志津川病院は、新聞やテレビで大きく取り上げられましたが、雄勝病院の職員は口を堅く閉ざしたままでした。

 かつて4000人弱だった雄勝町の人口は、いま実質的に1000人を下回ってしまいました。閑散とした病院跡地には、手作りの木製の慰霊碑が残されています。手書きで40人の患者に続いて職員24人の名前が並んでいます。

 山を越えた北上川の畔には、84人の犠牲者を出した石巻市立大川小学校があります。その慰霊碑には、震災から6年が過ぎた今でも祈りを捧げる人が途絶えることがありませんが、この雄勝病院跡地までわざわざ足を運ぶ人は、ほとんどいません。

 でも、この慰霊碑の周りの花壇には季節の花が咲き、きれいに手入れがされています。それはまるで、残された職員と犠牲者が心を通わせているかのような佇まいです。

(ノンフィクション作家 辰濃哲郎)

【写真】今年3月11日、慰霊碑前には多くの遺族が集まった

今年3月11日、慰霊碑前には多くの遺族が集まった