「お金」よりエンピツが盗まれやすい理由〜人はどんなときに“ズルしてもいい”と思うのか

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「悪気はなかった」「みんなもやっていたから」……罪を犯した人のそんな言い訳を聞いたことがないだろうか。また、目の前の金を盗むことはできなくても、ビニール傘を失敬してしまう人は多いが、罪は罪だ。人はなぜ、どんなときに不正を働くのだろうか? 行動経済学で考えてみよう。

■詐欺すら起こる、感覚の麻痺

少し前に、あ然とする出来事があった。

仙台で、バロック系作曲家の名を冠したピアノコンクールの予選を見に行ったときのこと……結果がどうもおかしいのだ。

その日、普通はうしろに座る審査員が、場所の関係でたまたま目の前に座っていた。審査委員長のピアノ演奏家は、両肘をついて頬杖にして、退屈そうに大あくびをしては目を閉じる。その姿は寝ているようにすら見えた。さらにその演奏家は、何枚かたまった採点表を係が集めるたびに、隣に座る地区主催者・兼・審査員の女性の手元をのぞきこんでから評価を書く。

出場した人に講評用紙を見せてもらうと、地区主催の審査員とピアノ演奏家のふたりの評価は同じ点数と同じ内容。誰がどう聞いても下手な子や、ミスがあった人の番号が掲示され、「おかしい」という声が周り中から聞こえてきた。通過したのは、主に主催者の門下生や関係者が多いらしい。一応、大きなピアノ組織が認めた、全国大会まであるコンクール。いくら音楽は主観の審査だとはいえ、あまりにあからさまだ。門下生に手心を加えるどころではない、杜撰な結果に多くの人が驚いた。

参加費は7000円〜1万円弱と金額が“小さい”地区予選。ほかのコンクールの関係者と話をすると「本部にお金をとられるから、そんなに儲けは出ないですよ」とのこと。しかし金額や規模の問題ではなく、金銭を集めるコンクールで不正を働けば、詐欺と取られても仕方がないのではないだろうか。

そういえば数年前、朝日新聞の見出しに「日展書道、入選を事前配分」の文字が躍ったのは記憶に新しい。表向きは“公募”ながら、有力8会派に所属していない人は、事実上の門前払い。入選すらしないというもので、上層部をたずねるときには“手ぶらでは行くな”が慣習だったとされる。

驚くのは、この事実が発覚したときの関係者やその周りの反応が「何を今さら」というものだったこと。つまり、長い期間みんなでやってきたことであり、誰もが不正に慣れてしまっていたわけだ。

なぜ、人は平気でこうした不正をしてしまうのだろう? それを解き明かしてくれる、おもしろい実験がある。

■私たちにとっての“罪を犯す価値”とは

デューク大学の行動経済学者のダン・アリエリー氏は、人はなぜ、どういうときにズルを働くかを調べる実験を行った。内容は「問題が20問書かれた紙を配り、正解数に応じて料金を支払う」というもので、1問正解するごとに1ドル支払われる仕組みだ。最初のグループにはそのまま解答用紙の提出を求め、2番目のグループには、紙を破いたりして提出せず、自己申告でもいいとした。すると、支払った料金は次のようになった。

1. 普通に解答用紙を提出  → 平均4問=4ドル
2. 紙を破きポケットにしまうか、一部だけ提出 → 平均7問=7ドル

ズルができる状況では、平均正解数が4問から7問に増える結果になった。

ここでは、誰でも損得勘定が働くだろう。たとえば捕まる確率と、不正から得られるメリットは何か? といった計算から、“罪を犯す価値“を決めていくというわけだ。

次に、同様の実験で持ち逃げできる環境を作る。問題の正解数に応じて、自分で皿から取っていくというもの。1問を1ドル、5ドル、10ドルと変えてみる。普通に考えたら、金額が大きくなったときのほうが、不正が多そうだ。ところが、金額の大きさによって不正は変わらず、金額に関わらず“多くの人が少しだけ”不正をしたという。

このときに働いている力を、アリエリー氏は2つ挙げている。

*自尊心から不正を抑えようとする力
*少しだけなら不正をしても 自尊心はまだ保てるという力

つまり、超えてはいけない一線を守りながら 自分の評価を傷つけない程度に、些細な不正から何かを得ようとする気持ちが働くというわけだ。では、どんなときにそれが働くのだろうか。

■特別な人ではなく、誰もが少しのズルをする?

今度も同様に、解答用紙を破いて自己申告をするが、報酬を次のように変える。

A:X問正解したので、Xドルくださいと自己申告
B:X問正解したので、X枚引換券をくださいと自己申告(少し離れたところで換金)

なんと、紙幣でないBグループのときには、不正が2倍になってしまった。次は、実験謝礼金を先に渡し、正解できなかった問題の分だけ返させる。そして、ひとりだけサクラの学生を混ぜて開始から30秒で「全部正解したらどうしたらいいですか」と質問させ、試験官は終わったらそのまま帰るように促す。このとき、立ちあがったサクラの生徒は、以下2つの条件になる。

1. 同じ学校のパーカーを着た学生が不正をする
2. 違う学校のパーカーを着た学生が不正をする

1の同じ学校の生徒のとき、そこにいた学生の不正は増加する。つまり、同グループの人間が不正をした瞬間に、全員が不正をしても大丈夫だという認識を持つようだ。ところが違う学校の生徒(違うグループの人間)の場合、被験者たちは正直なままだった。

つまり、周りの人がズルをするとズルが増え、特に仲間であるほどにその確率は高くなっていく。これは、単に捕まる可能性が問題なのではなく、不正しても良いかの判断基準を与えてしまうことが問題なのだろう。

これらの実験から見て取れるのは……

*多くの人が不正をする
*しかもほんの少しだけズルをする
*不正と少し距離が離れると(例えばお金以外のもの)ズルは増える
*周りの人がズルをしているのを見ると、特に同じ仲間だとズルは増える

お金は盗めなくても、エンピツなら失敬してしまう……そんな気持ちと同じようだ。つまり、直接お金の形をしていなければ、結果的にお金を盗っていたとしても、罪悪感は薄れてしまう。だから、直接の金銭のやりとりがない、株式市場や手形などの取引では不正が発生しやすくなってしまう。

人が判断の基準にしているのは、自分の「直観」だが、「このくらいなら大丈夫だろう」と、間違った方向に誘導されてしまう可能性もあるわけだ。

これを抑える、ちょっと面白い反応がある。

■直観を体系的に調べて学ぶには

実はこの実験の中で、この“自分の評価を傷つけない程度に、些細な不正から何かを得ようとする気持ち”を減らすためにしたのはこんな細工だ。

・1組目には、「高校時代に読んだ本を10冊」思い出すように促す
・2組目には、「十戒」を思い出すように促す。

「十戒」とは、旧約聖書に書かれたモーセが神から授かったとされる戒律のこと。たとえば「盗んではいけない」「偽証してはいけない」「父母を敬う」といった内容がつづられている。結果は、十戒を思い出させた人たちは、誰もズルをしなかったそうだ。あるいは、倫理規定にサインをさせるだけでも同様の効果が働くという。つまり、「モラルに少しでも触れた瞬間に不正が減る」というわけだ。

多くの場合は“誰でも”この些細な不正から何かを得ようとする心理が働き、それは小さいほど行動に移しやすい。冷蔵庫の上の500円玉は盗らなくても、冷蔵庫の中のコーラの缶は失敬する。お金には直結しないときには罪悪感は薄れ、罪だとわかっていても、罪をしている実感はわきにくい。

先のコンクールも展覧会も、主催者たちにとっては直接金銭を奪っているわけではないので、罪の意識を感じにくく、仲間がみんなでやっていれば「このくらいは……」といった認識になってしまうのかもしれない。しかし、教える立場の人間たちが、子供や生徒の目の前でやっているのだ。これは大きく判断を間違ってしまった例だろう。

ダン・アリエリー氏はこう語る。「自分の直感をより体系的に調べる事が出来れば、物事はもう少し上手く運ぶのではないか」

「誰でも、少しのズルをする可能性がある」というのだから、ビジネスの場でも生活でも、ときには自分の判断をしっかりと見直す時間をとってみたい。特に政策決定の場で直観をどう使うべきか……そう、今国会で話題の方々には特に必要なことかもしれない。

(上野陽子=文)